2017年02月18日

懐かしのボンタンアメ



先日、知り合いから「ボンタンアメ」をひと箱貰った。そう、あのボンタンアメだ。懐かしい箱のデザインに思わず頬が緩んだが、さっそく食べた味もまた懐かしさ溢れるものだった。何というか甘くてほんのり酸っぱく、キャラメルともひと味違う餅のような独特の柔らかさ(歯にくっつくんだよね)。“ああ、これこれ!”と嬉しかったが、思えば筆者が口にしたのは何年ぶりだったろうか…。なにしろアメを包んであるオブラートを、つい剥がしそうになったくらいだもの。

そもそも、ボンタンアメがむかしと全く変わらぬパッケージで、今も売られていることに筆者は驚いた。何たってこの商品、筆者が子供の頃からよく知られており、特に駅の売店などでは「都こんぶ」と並んで必ず目に入る、憧れのツートップの片方だったのだ。そこには昭和の匂いが漂い、紫の地に黄色いボンタンが描かれた箱は、当時から既にレトロな雰囲気に包まれていた。もっとも、ほの甘く上品な味と香りのそのアメは、どぎつい甘さの駄菓子に慣れた子供の舌には、ややもの足りなくもあったのだが…。

あらためてボンタンアメの箱の裏を見ると、製造しているのは鹿児島市にあるセイカ食品という会社。おお、お前は薩摩っぽだったのか! さっそくネットで調べてみたら、なんとこのアメは大正13年生まれということが分かった。恐るべきロングセラー商品ではないか。水飴・砂糖・麦芽糖・もち米を主原料に、鹿児島県阿久根産の文旦などの果汁で風味をつけてあるといい、筆者はふと中学生のとき、阿久根市の女の子と文通したことを思い出した。モチモチした食感はどうやらもち米のせいらしいが、ソフトキャンディーのハシリとも言えるこのアメ、あんがい時代を先取りしていたのかも知れないな。

ところで筆者が東京に住んでいた頃、JR駅のキオスクや地下鉄の駅の売店などでも、このボンタンアメをよく見掛けたものだ。そればかりか東京生まれの知人の女性も、ボンタンアメのことをよく知っていた。どうやらこのアメは九州ローカル商品などではなく、スーパーや一般商店などを中心に日本全国で販売されているようだ。つまり意外にも全国区。ただし、めったに食べないのによく知られているのは、やはり駅の売店という目立つ舞台で、都こんぶとまるでペアのように並んでいるからだろう。

そこでツートップのもう片方である、都こんぶについても調べてみた。すると分かったのは、製造元が中野物産という大阪府堺市の会社だということ。この商品の原型が出来たのは昭和6年で、創業者である中野正一氏が生まれ故郷の京都を偲び、「都こんぶ」という名前をつけたのだという。ボンタンアメほどではないが、こちらも長い歴史を誇る銘菓だったってわけだ。あの小さな赤い箱に描かれた桜のマークは、古都・京都に咲いた桜のイメージだったのだな。

むろん筆者は、都こんぶも買って食べたことがある。表面に白い粉のついた酢昆布は、噛んでいるうちに甘さと旨味が口の中に広がり、ほど良い柔らかさになってやがてトロリと溶けて行く。この絶妙のハーモニーがクセになり、つい後から後から食べてしまうのだ。しかもこんぶなので噛み心地が良いし、何より体にも良さそう。一風変わった駄菓子として今も人気が高いのは、日本人とこんぶの旨味との相性がピッタリ合っているからだろう。

まあこうして並べてみると、ボンタンアメと都こんぶはけっこう共通点がありそうだ。まず、どちらも長い歴史を持つ庶民の銘菓であり、駅の売店の必須アイテムとして、むかしから国民に親しまれて来た。パッケージのデザインも時代に迎合せず、かたくなにレトロ調を守っている。なのでオールドファンには懐かしく、若い購買層にはかえって目新しく映るのかも知れないな。そして何よりの特長は、どちらも他にないユニークな味だということだ。

駅の売店にあるキャラメルやガムやチョコに比べると、その味はひときわ異彩を放っている。どちらも甘さは控え目で、酸っぱさや旨味や噛み心地という、大人の味覚を刺激するつくりになっている。しかも和のテイストなのだ。このシブさが他の洋菓子にはないところ。毎日食べたいとは思わないが、ふと見付けるとつい懐かしい味に惹かれて、誰もが買ってしまうのだろう。そこが良いんだよなあ。

つまりボンタンアメも都こんぶも、“大人の味”であり“旅の味”なのだ。特別、目の球が飛び出るほどウマいわけではないが、口に入れておけば噛むほどに味わいが広がり、車窓を眺めながらしばらく旅の風景を楽しむことが出来る。ゆったりとした時間が流れ、そこに甘くて酸っぱい思い出が生まれる。チューインガムじゃこうはいかないもんな。まさに大人のための駄菓子。今度、駅の売店で見掛けたら、筆者もまた買ってみようかな…。  


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2016年11月11日

ピーナッツのない世界なんて



ビールやウィスキーのつまみに手頃な、乾き物の代表といえばやはり「柿の種」だろう。文字通り柿の種の形をした醤油味のあられは、香りと歯触りが好くていくつ食べても後を引くのが特徴だ。筆者などはポリポリ食べ始めると、一袋くらいアッという間に完食してしまうので困る。もともと人気商品のこの柿の種、近頃では外国人にも受けていると言うから、ますます伸びしろは大きい。

で、この柿の種の最高のパートナーと言えるのが、一緒に入っているピーナッツだ。むろん柿の種だけ食べても美味いし、ピーナッツだけ齧ってもこれまた美味い。だがこの両者を交互に食べると、美味さが三倍増するから不思議なのだ。プロレスで言えばタッグで1+1を3に変えた、むかしのヤマハブラザースみたいなものだろうか(ちょっと古過ぎ?)。それはともかくピーナッツの入らない柿の種は、ワサビ抜きの寿司や紅ショウガのない牛丼と同じように筆者の心を萎えさせる。

ところでこのピーナッツ、袋の裏側を読むとたいてい「中国産」と書いてある。そう、どのメーカーもあの中国産ピーナツを使用しているのだ。なので普段から中国産食品を避けている筆者も、このときばかりは「まあ仕方ないさ」と諦めざるを得ない。なんたって、味以外で柿の種の最大の魅力といえば、それは安価だということ。スーパーでお徳用を買えば、大袋に入った商品が200円以下で手に入る。そこに国産のピーナッツを使えば、価格がアップすることは確実だもんな。まあ、国産を使った高級品もあるのだろうが、心配しつつも安い中国産入りを食べる筆者は、このときハムレットの心境になるのだ。

思えば筆者らが子供の頃に食べたピーナッツは、間違いなく国産品だったはず。思い出補正かも知れないが、その頃の味は今の大味な中国産に比べれば、ずっと甘くてコクがあったような気がする。しかもなにしろ、当時は佐賀県の農家でもこれを作っていたのだ。筆者が覚えているのは、小学生のとき同じクラスの農家の子が教室に持参した、畑から穫れたてのピーナッツ。あの頃は「落花生」という名前が一般的だったが、とにかく子供心にもそいつの姿は衝撃的だったなあ。

なんと筆者の大好物の落花生は、見たこともない植物の根っこに生えた、泥の付いた繭のようなシロモノだったのだ。それまでてっきりドングリみたいな木の実だと思っていたものが、実は畑の土の中で生まれる不思議な果実だったとは! クラスの他の子供たちも、初めて見る落花生の正体にみな驚いていたっけ。後で知ったのだが「落花生」の名の由来は、受粉した花から下に伸びたつるのようなものが、土の中に潜り込みそこで実を結ぶからだとか。つまり、花が落ちて地中で実が生まれるから「落花生」。豆は豆だが、こいつはずいぶん奇妙な豆なのだ。

現在、日本で落花生つまりピーナッツの産地といえば、代表的なのが千葉県だ。千葉県人が県外に行くときのお土産は、たいていピーナッツかそれを加工したお菓子だろう(あとは茄子のよいち漬かな?)。筆者も以前、千葉市からのお客様に手土産として、ピーナッツを味噌と砂糖でからめたお菓子を頂戴したことがあったが、あれはなかなか美味しかったなあ。なにより千葉県産のピーナッツは、甘みとコクがあってイケるのだ。

筆者がなぜ千葉県産ピーナッツを推すかというと、実はその味をよ〜く知っているから。学生の頃、千葉県の柏市に住み都内に通っていた筆者は、同じ下宿の別の部屋に住む男と親しくなった。千葉県の農家生まれの彼はたまの休日に実家に帰っていたが、そこでよく仕入れて来ていたのが自家製のピーナッツだったというわけ。筆者はいつもそれを目当てに部屋を訪ねては、ポリポリとお相伴に与っていたのだ。

彼が実家から持ち帰っていたのは小粒な物が多かったが、おそらく商品として出すにはサイズが足らず、不合格になったものばかりだったのだろう。だが、小粒ゆえにギュッと味が凝縮されたそれらのピーナッツは、噛めば噛むほど甘みやコクが増し、筆者がふだん商品として食べていたものより、数等美味かったことを覚えている。その友人いわく、「いちばん美味くて安全な物は百姓が自分で食べる」ということだったが、なるほどなあと納得させられる味ではあったねあれは。

さてしかしこのピーナッツは、いつ頃から柿の種の伴侶になったのだろうか? メジャーな製造メーカーである亀田製菓のウェブサイトによれば、最初はビートルズが来日した1966年のことらしい。当初の柿の種とピーナッツの比率は7:3だったが、その後お客の要望に合わせて6:4になったのだという。むろん1966年の前から柿の種はあったようだが、この塩気の利いたあられにピーナッツを混ぜるという、ほんのちょっとしたアイデアが大ヒット商品に繋がったのだから、やっぱり思いついたら何でも試してみることが大事なんだな。

そういえば甘いスナックのキャラメルコーンにも、ピーナッツは入っている。こちらはかなり塩がまぶされており、キャラメルコーンの甘い味に飽きたときにポリポリ噛むと、口直しとしてちょうど塩梅が良い。こうして見るとピーナッツはそれだけ食べても美味いが、醤油味や味噌味の塩辛いお菓子とも合うし、キャラメル味やチョコレート味の甘いお菓子とも相性がいい。言わば万能型のスーパーナッツなんだな。今後は誰か料理の材料としても、活用の道を広げて欲しいものだ。  


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2015年08月11日

日本の夏に「冷や汁」



年々暑さが増して行くような日本の夏。一日の最高気温が35℃を超える猛暑日がこう連続すると、さすがに誰もが地球温暖化の現実を認めざるを得ないだろう。この勢いのまま進めば10年後、20年後の日本の夏はいったいどんなことになるのやら。気温40度超えは当たり前、熱中症の死者などはもはやニュースじゃない──。そんな時代がすぐにやって来るのだろうか? ちょっと恐ろしい気がするなあ。

しかしこう暑いと、ふつうなら食欲が落ちて夏痩せするものだが、そんな傾向がまるでないのがわが肉体の恐ろしさだ。だいいちTシャツなんか着ると、この出っ張った腹の目立つこと。そのむかし、映画『欲望という名の電車』に出ていた若き日のマーロン・ブランドの、ピチッとしたTシャツ姿はセクシーで格好良かったが、あれとはえらい違いだ。もっとも、これは明らかに比較する対象が間違っているけどね。

で、こんな暑いときに筆者が思い出すのが、かつて宮崎でよく食べた「冷や汁」の味だ。いや、とにかくあれは美味かった。特に酒を飲んだ後、最後の締めにこいつをサラサラッと流し込むのが、もう病み付きになるほど堪らなかったな。ただし「冷や汗」は知っていても、「冷や汁」は知らないという人は世間に多いはずだ。両者はよく似た字だが、その実体は天と地ほども違う。「冷や汁」を知らないまま年を取るのは、人生の「冷や汗」ものだと筆者などは思うのだが、言い方がちょっと変だろうか?

「冷や汁」は宮崎県の郷土料理の一つで、特に暑い季節なんかにはもってこいの食べ物だ。まあ一言でいえばローカルな汁掛け飯なのだが、意外に簡単に作れるところが便利なので紹介したい。作り方はまず、から煎りしたいりこと胡麻をすり鉢ですりつぶし、これに麦味噌を入れてよく混ぜる。つぎに、出来たものをフライパンなどで香ばしく焼き、すり鉢に戻して冷たいだし汁を掛けよく溶かす。これに薄く切った胡瓜や紫蘇、ネギなどの薬味を浮かべ、冷蔵庫でよく冷やしておく。

食べるときは、おタマで掬って温かいご飯に掛けるだけ。早い話が宮崎のファストフードだ。だが食欲のないときやお酒を飲んだ後などでも、こいつをサラサラッと豪快にかき込むと、驚くほどいくらでも腹に入って行くからアラ不思議。とにかく味噌の香りと出汁のうま味と薬味の刺激が、ご飯の甘さと混じり合い口の中に広がった後、喉を一気に滑り落ちて行く感触は他に例えようがない。ああ、快感だ! また熱いお茶漬けなどと違い、胃袋を適度に冷やしてくれるので、食後感もスッキリ爽やかなのが良い。

筆者など若いころ宮崎に出張すると毎晩、ホテルの近所の飲食街で飲み歩いた後、最後は必ずこれを注文して食べたものだ。で、あるとき仕事先で地元の人に昨夜の「冷や汁」が美味かったという話をすると、「そこに豆腐ば手で潰して入れると、うまかですよ」といわれたことがあったな。すると、そばにいたもう一人が「いや、入れん方が良か」と反論して、意見が分かれたことがあったっけ。まあ取っ組み合いのケンカにはならなかったが、きっとこの「冷や汁」は宮崎の各家庭ごとに作り方が微妙に違うのだろうな。筆者的には豆腐も悪くないと思うのだが。

そういえばだいぶむかしにテレビで、山で修行をする山伏を追跡取材した、ドキュメンタリー番組を見たことがあったが、このときの彼らの山中での食事も筆者の記憶に残っている。弁当箱には白飯に漬け物、そして携帯した味噌を山の清水で解いただけの味噌汁。だが、そのとき彼らが話していた「清水で溶いた冷たい味噌汁が喉を通る味は、他の何ものにも代え難い」という言葉は、その嬉しそうな笑顔とともに深く印象に残っている。厳しい修行の合間に、ひとときスーッと心と体を癒してくれる冷たい味噌汁の味は、きっと山伏さんにとって最高のご馳走だったのだろう。

まあ考えてみると、筆者らはふつう味噌汁というと温かいスープを連想するが、あんがい冷水で溶いた味噌汁も捨てがたい味がするものだ。ネットで調べてみるとこの冷たい味噌汁、意外に夏向けの郷土料理として全国各地にあるようだ。ただし肝要なところは、これらが「冷めた味噌汁」ではなく「冷たい味噌汁」だということ。つまり、すっかり熱が冷めて具もスープもグッタリした味噌汁ではなく、最初から新鮮な具材と生の味噌を出汁入りの冷水で溶いた味噌汁だ。これはご飯やソーメンとの相性も良さそうで、夏の食卓にはピッタリのような気もするな。

そこで今回は特別サービスに、筆者のとっておきの「オリジナル冷や汁」の作り方をご紹介したい。なあに本物の「冷や汁」よりさらに作り方は簡単で、その割りにビックリするほど美味いから読めばお得だ。まず丼に温かいご飯を盛る。次にその上に指で握り潰した豆腐、細かく切ったキムチ、身をほぐした缶詰のシーチキンを適当にちらし、最後に出汁入り味噌を冷水で溶いて上から掛ければ一丁上がり。好みで七味唐辛子などを振るのもいいだろう。これをジャブジャブかき混ぜて、サラサラッと口の中にかき込めばもう気分は最高だ。

何といってもこれ、信じられないほど作るのが簡単な上、材料はすべて近所のコンビニで調達可能なのが特長。なので別名「コンビニ冷や汁」とも言う。ちょっと貧乏臭いのが玉にキズだが、むかし筆者が発明したこのオリジナル冷や汁、食欲のない暑い日などには最適の一品だ。やっぱり味噌と冷水とご飯というこの3点セットは、塩分・水分・エネルギーを補給する上で、日本の夏の最強トリオと言えるんじゃないのかな。  


Posted by 桜乱坊  at 18:54Comments(0)食べ物など

2015年04月07日

クサヤの干物はなぜ臭い



風邪が治ってひと月以上も経つというのに、筆者の鼻にはまだ嗅覚が戻らない。おかしいので病院に行ったところ、風邪のウィルスによる嗅覚障害という医者の見立てで、治るまでけっこう時間が掛かるらしい。つまり筆者はいま、ニオイのない世界に住んでいる。そこでこの際なので、ニオイを感じないことの利点は何かといろいろ考えてみた。

まずやっぱり悪臭を気にせずにすむので、トイレ掃除や生ゴミの片付けには好都合だ。強いアンモニア臭も平気だし、ゴミ収集車の作業員だってやれそうな気がする。ワキガや口臭のヒドい人とも楽しく付き合えるし、世界一臭い果物ドリアンも食べられるだろう。今ならあのクサヤの干物でさえ、焼けと言われればいくらでも焼ける自信がある。

もっともクサヤを一日中焼いていたら、衣服がとんでもないことになりそうだ。なんといってもあの煙は、まさに焼けたウ◯コのニオイそのもの。それが衣服に染み付いたまま電車などに乗ったら、周りから人がいなくなるのは目に見えている。こちらは何ともないのに白い目で睨まれたり、シッシッと手で追い払われたり。場合によっては、体から異臭を放つこの怪しい男をなんとかしろ、と車掌に通報されたりするかもね。つまり、それほどクサヤを焼くニオイは強烈なのだ。

早い話が日本の食べ物の中で、焼いたクサヤほどニオイのきついものもないだろう。たとえば居酒屋や小料理屋の主人も、客の注文でこれを焼くときはちょっとだけ躊躇するはずだ。なにしろ飲食中の他の客に申し訳がない。しかも煙が外に出て行けば、近所からコラァ!と苦情が来ることだってあるだろう。そう考えたらやっぱりどんなに心臓に毛の生えた店の主人も、少しだけ罪悪感を覚えるのではなかろうか。まあ、ヤケクソになることはないだろうが…。

そういえば、筆者が生まれて初めてクサヤの煙と遭遇したのは、かつて学生時代の仲間たちと催した恩師を囲む会でのこと。神楽坂の洒落た小料理屋の座敷には懐かしい顔が並び、先生もずいぶん上機嫌だったが、そこに漂って来たのが何とも言えぬあのニオイ。当時は筆者もそれが何なのか分からず、上品な雰囲気なのにずいぶんウ◯コのニオイのする店だと思ったものだ。なので筆者の青春の一ページには、懐かしい顔ぶれとクサヤの煙が一緒になって刻まれている。これがクサい仲という奴だろうか。

ただしニオイは酷いクサヤだが、食べてみるとこれがビックリするほど美味いから困る。なにしろクサヤとは新鮮なアジやトビウオなどを開き、独特の風味をもつ発酵液(クサヤ汁)に漬けて日干しにしたもの。このクサヤ汁こそとんでもないニオイの正体なのだが、実はこれ魚のハラワタを漬けた塩水が、種々の微生物により発酵した秘伝の液体。生産者がそれぞれ長年かけて育てた汁からは、ひと言では言えない複雑なうま味やニオイを持つ干物が生まれるというわけだ。

このクサヤの産地は主に伊豆諸島。かの地は江戸時代から塩が年貢用として貴重品だったため、獲れた魚の干物作りにも塩はふんだんに使えなかった。そのためやむなく漁師たちが発明したのが、使い回しの塩水に漬けて干す方法。ところがこの干物が意外と美味かったため、やがてクサヤはかの地の名産品になったのだとか。ケガの功名とも言えそうな話だが、感謝すべきものはやっぱり微生物なんだろうね。

筆者もそのむかし伊豆半島をドライブした際、土産物屋で美味そうな瓶入りのクサヤを見付け、買って帰ったことがある。ガラス瓶の中に入った焼いて小さくちぎったクサヤの身が、飴色をしてえらく魅力的に見えたのだ。ウン、本当にあれは美味そうだったなあ。ところが家で瓶を開けたとたんオェッとなり、慌ててまたフタをして冷蔵庫の奥へ。後はそのまま年月が過ぎ、とうとう一口も食べないまま、いつしか奴の姿は冷蔵庫から消えていた。あのときもう少し勇気があったなら…、こんな思いをした人は他にもいるのではなかろうか。

それにしてもウ◯コのニオイのする食べ物は、なぜかくも人を惹き付けるのだろうか。世界にはクサヤ以上に臭いといわれるものがいくつもある。イヌイットがアザラシの腹の中に海鳥を詰め込んで発酵させる「キビヤック」や、エイの壺漬けを牛糞の中で発酵させた韓国の「ホンオフェ」、世界最恐のニシンの缶詰といわれるスェーデンの「シュールストレミング」などは有名だ。筆者なんか、もう説明を聞くだけで倒れそうになるが、かの地の人々はきっとこれが死ぬほど好きなのだろう。「蓼食う虫も好きずき」とはまさにこのことだ。

これらの食べ物に共通しているのは、いずれも発酵食品だということ。これはクサヤも同様だ。では発酵食品のニオイの元は何かというと、つまりは微生物たちの出す廃棄物。人間のウ◯コが腸内細菌のおかげで臭いのも同じことで、結局われわれは微生物たちの出すウ◯コのニオイを嗅ぎながら、発酵食品を食べているってわけ。でもこれが抜群に美味いのだから仕方がない。

そんなわけで、今なら筆者もニオイを気にせずクサヤが食べられる。嗅覚はダメだが味覚の方は全然OKなのだから。でも果たして、ウ◯コのニオイのしないクサヤは美味いのだろうか? 結果は初めから見えている気がするなあ。  


Posted by 桜乱坊  at 11:54Comments(0)食べ物など

2015年02月20日

プロレスラー鍋物語



引退した相撲取りが始める商売といえば、まずちゃんこ鍋の店と相場が決まっている。近頃は貴闘力や琴光喜などのように焼肉屋を開く元力士もいるようだが、やっぱり圧倒的に多いのはちゃんこのはず。筆者も過去に何度か、そんなちゃんこ料理の店で食べたことがある。内部にはいろんな力士の手形やサインなどが飾ってあり、独特の雰囲気の中で食べる本場仕込みの鍋は、どの店もとても美味かったね。

ちゃんこが美味いのは、それを作る力士たちが新弟子の頃から腕を磨いたからだろう。何といっても食べるのは怖い先輩や親方だから、マズいものを出すわけには行かない。しかも自分たちだって食べるのが商売だ。彼らの豪快かつ繊細な手先は自然と、美味くて栄養バランスのとれた鍋料理を作れるようになる。なにより鍋は一度に大量に作れる上、後からいくらでも材料を継ぎ足せるのが利点。おまけにみんなで囲めば、結束力も強まるってわけだ。

もっとも、ちゃんこ鍋の店は元力士の専売特許と決まったわけじゃあない。実はプロレスラーも、引退した後はけっこう鍋料理屋を開いている。え、プロレスラーがなんで?と思う人がいるかも知れないが、これには日本プロレス界の父、力道山が相撲界出身だったという歴史が大きく関わっている。

大相撲の関脇まで昇った力道山は自ら髷を切って引退した後、プロレスラーに身を転じたわけだが、会社を興すにあたり相撲界の慣習をずいぶん取入れている。例えばジムを相撲部屋のような師弟関係にしたり、若手が先輩の身の回りの世話をする付き人制度にしたり。これらは彼が修行をしたアメリカにはないやり方で、結果としてこうした大相撲式の家族的選手育成スタイルは成功し、現在のマット界へと引き継がれた。プロレスラーが自炊して共にちゃんこ鍋を囲むのも、つまりはその伝統の延長なのだ。

筆者は東京に住んでいた頃、プロレス好きな仲間と「烈する会」という同好会を作っていたが、皆でたまに元レスラーの店を訪れたりしていた。中でも思い出すのが、浅草寺のすぐ北の方にあった「香寿美」という小料理屋。ここはあのアニマル浜口さんの奥さんが切り盛りしていた店で、われわれが行った晩もカウンターの中では、娘の京子ちゃんによく似た奥さんが腕を振るっていた。ふと見るとすぐ横の席には赤い顔をした浜口さんが、テレビで見たことのあるプロレス記者と話し込んでいたっけ。

ここのオススメは何といってもカレーちゃんこで、具が多くさっぱりしたカレー味は、酒にもよく合うなかなかの美味しさ。メンバーでガヤガヤ飲んで食べるうち、途中からは浜口さんも話の輪に加わり、関節技の話題などで盛り上がったのを思い出す。思うに、若手時代に国際プロレスで鍛えた浜口さんのちゃんこが、奥さんの手でグレードアップしたものが、ここのカレーちゃんこになったのだろう。ただし思い出の味のこの店、今は閉じてしまったらしいのがちと残念!

飯田橋にある「かぶき」という店に行ったのはいつだったか。ここは名前の通り、あのフェイスペイントと毒霧で一世を風靡したグレート・カブキさんが、マスターとして庖丁を握る小さな居酒屋。むろん店ではスッピンだけどね。店内の壁にはカブキさんの現役時代の写真や試合のポスターなどが貼ってあり、プロレスムードがぷんぷん漂っていた。カウンター席が他の客で埋まっていたので、人数の多いわれわれは一番奥のテーブル席に陣取ったわけ。

ここで食べたのもやはりちゃんこ鍋だったが、他にもいろいろ多彩なメニューがあり、そのどれもがイケていたね。だが、いちばんの喜びはカウンターの客が帰った後、カブキさんがわれわれの席に来て、30分ほど話相手になってくれたことだ。気さくな人で、友人レスラーたちの近況や新人時代の過酷なスクワットについてなど、いろんな面白い話をしてくれた。「スクワットのやり過ぎは、本当は膝に良くないんじゃないですか?」と筆者が突っ込むと、「だからレスラーはみんな膝が悪いんですよ」とカブキさんは笑っていた。もっとも毒霧の正体については、ついに明かしてくれなかったけどね。

そういえばわれわれは、西武新宿線の中井にあった「スナック・カンちゃん」にも押し掛けたなあ。カンちゃんと聞いてピンと来た人はカンが良い。そう、ここはあのモンゴリアンチョップの巨漢レスラー、キラー・カーンが引退後に開いた店だ。居酒屋と違い数人の女の子が接客をしていて、怖い顔をしたカンちゃんは厨房でせっせと料理を作っていた。その料理が美味かったのか、女の子が可愛かったのか、筆者が覚えているのはこの店で相当飲んだこと。帰りの勘定のとき、みんなでちょっと顔を見合わせた記憶がある。

と言っても別にこの店がぼったくりなわけではなく、つまりはわれわれがしこたま飲んだから。怖い顔のカンちゃんの正体は、奥から出て来てメンバー一人ひとりに丁寧にサインをしてくれる、心優しい人だったね。惜しかったのは飲み過ぎたせいで、力士出身のこの人の手作りちゃんこを食べそこなったこと。その代わり締めに特性カレーを食べたけど、これはこれでけっこう美味かった。現在は中井から大久保に場所を移し、「ちゃんこ居酒屋カンちゃん」として鍋料理をメインにしているらしいので、いつか味見をしたいと思っている。

こうしたプロレス界の鍋の伝統は、後の世代のUWF系の団体にも受継がれているようだ。何の番組だったか忘れたが以前テレビで筆者が観たのは、高円寺でジムを営む元レスラーの宮戸優光氏が、練習生のためにちゃんこを作る場面。この人が腕によりをかけた自慢の鍋は、まず最初にコーチのビル・ロビンソンに捧げられ、御大は熱そうな椀を受け取りながら「アリガト」と笑顔を見せていた。筆者には彼らの師弟関係がとても日本的なものに見え、ああロビンソンもついにちゃんこの味が染みたのかと、感慨深かったのを覚えている。

「ちゃんこ」とは本来、相撲部屋で力士たちが作る料理全般を差すらしいが、ちゃんこ鍋はその中でも最もポピュラーなもの。男たちが作り男たちが輪になって食べる鍋こそが、男たちの頑健な体を作り家族的な連帯を生むというわけだ。この良さをプロレス界に取入れた力道山は、やはり先見の明があったのだろう。欧米から伝わったプロレスが日本で今日まで隆盛した理由の一つに、このちゃんこ鍋の存在があったと考えるのはうがち過ぎかな?  


Posted by 桜乱坊  at 15:38Comments(0)食べ物など

2014年11月09日

ラーメンとかんすいの関係



ちょっと前にDVDで観た映画、『南極料理人』がけっこう面白かった。舞台は南極の基地で、登場するのは越冬隊の男ばかり8人。主人公は堺雅人扮する調理担当の若者だ。過酷な環境の中で、地道な観測や研究を続ける男たちの日常を描いた映画だが、仕事以外の楽しみといえば当然ながら食べることくらい。限られた食材でそんな連中を満足させようと腕を振るう、調理人の奮闘ぶりを映画はコミカルに描いていた。

で、中で記憶に残っているのがインスタントラーメンのエピソード。隊員の中に無類のラーメン好きがおり、この男が密かに夜食として食べていたため、ある日ストックが尽きてしまったのだ。自分の体はラーメンで出来ているという男の哀願により、主人公は仕方なくラーメン作りに挑戦することになる。だがそこで突き当たるのが、「中華麺」の作り方という難題。実は中華麺独特の風味やコシ、あの黄色い色は、単に小麦粉を水でこねるだけでは絶対に生まれないのだ。

そう、ふつうに小麦粉を水でこねて作ると、麺は白くて真っ直ぐな「うどん」になってしまう。中華麺はそこに「かんすい(鹹水)」という添加物が必要なのだ。かんすいは炭酸ナトリウムなどを含んだアルカリ性の水で、そのむかし中国奥地の湖の水で麺を練ったところ、独特の風味とコシを持つ黄色い麺が誕生した。湖水に炭酸ナトリウムなどが含まれていたせいだが、これが現在の中華麺の元になったと言われている。われわれが普段食べるラーメンや焼きそばが美味いのは、つまりみんなこのかんすいのお陰なのだな。

映画では困った主人公が苦心の末、かんすいの代わりにベーキングパウダー(ふくらし粉)を使って中華麺作りに成功する。これはベーキングパウダーが重炭酸ナトリウム(重曹)を材料にしているためだ。やっぱりどんなにスープが濃厚で美味くても、麺がうどんやソーメンのようではラーメンとは言えない。あの黄色くてコシのある縮れ麺こそが、ラーメンの真髄と言ってもいいだろう。ちなみに麺を縮らせるには、機械や手揉みなど様々な方法があるらしい。

しかし、「いんにゃあ、佐賀ラーメンの麺は黄色じゃなかばい」という声もどこからか聞こえて来る。確かにそのとおり。だがこれは、博多ラーメン系の麺が「低加水麺」と呼ばれる、かんすいの添加量が少ないタイプ(0.8〜1.2%)だからなのだ。わりと細くて白くて縮れも少ない低加水麺は、シャキッとしたクセのない食感となり、九州の豚骨スープにはとてもよく合う。喉越しも良いので、替え玉も何回でも行けるというわけだ。

これに対して、かんすいの添加量の多いのが「多加水麺」(1.5〜2.0%)。札幌ラーメンや喜多方ラーメンなどに使われており、太く黄色い麺はまるでほどいた毛糸のようにチリチリ縮れている。麺の表面にはツヤがあり、噛めばモチモチした弾力性が特長だ。歯ごたえ十分なので、味噌ラーメンに入っているモヤシなどと一緒に口に入れ、ワシワシと噛んで食べるのもまた美味い。しかも茹でて水で冷やしたものは見た目が美しく、山盛りのつけ麺などを見ると筆者はついヨダレが出てしまう。

標準的な中華麺のかんすい添加量は1.2〜1.6%。ちょうど低加水麺と多加水麺の中間的な食感を持ち、色も太さも縮れ具合も両者の真ん中あたりに位置する。東京で食べる昔ながらのラーメン(中華そば)がこれで、透明な醤油スープの中に行儀よく収まった感じが何とも上品だ。具はむろんシナチク、なるとにチャーシュー1枚きり。麺もスープもサッパリしているので、小腹が空いたときの間食にちょうど良く、酒を飲んだ後の締めにも最適なのだ。などと書くと、ああ下町の食堂で啜ったあの醤油ラーメンが恋しくなるなあ…。

じゃあ当然、佐賀県人が好きな長崎ちゃんぽんの麺にもかんすいが使われているはず──。まあ普通はそう考えたくなる。どう見てもあれは、うどんとは違うもんな。ところがどうも、ちゃんぽん麺は少し事情が違うらしい。調べてみると、これには「唐灰汁 (とうあく)」というものが使われていた。唐灰汁もかんすいの一種なのだが、炭酸ナトリウムの割合が多いのが特徴で、これで練った麺は独特の風味があり茹でても伸びにくいのだとか。

言われてみれば確かに、ちゃんぽんの麺はしこしこと歯ごたえがあり、熱いのを時間をかけて食べても伸びたりはしない。啜るというより、むしろ噛むという感じになる。つまり、ラーメンと違い麺をスープと具で煮込むちゃんぽんには、それに合わせてタフに特化したちゃんぽん麺が必要だということ。さすがは長崎だが、どうりで食べ終わるとアゴが疲れるわけか。ちなみに「ちゃんぽん麺」と呼ぶことが出来るのは、この唐灰汁を使った長崎県産のものだけを指すらしい。

さらに筆者はまだ食べたことはないが、沖縄には「沖縄そば」というものもあるようだ。ただし、そばとは言えど中華そばと同じで、麺には蕎麦粉を使わず小麦粉と水にかんすいを加えて作る。元々はかんすいの代わりに、ガジュマルなどの木灰を水に溶かした灰汁の上澄みを使用していたそうだが、そういえば小学校の理科の授業で、これがアルカリ性だと習った記憶があるなあ。なるほど納得だ。また沖縄そばは、茹でた麺をそのまま油でまぶすのが特長らしいから、なんだか南国的な風味があって美味そうじゃないの。

なるほど、かんすいを入れて作る中華麺は、こうして東アジアに一大食文化圏を築いたというわけか──。筆者がそう結論付けようと思ったら、最後にドンデン返しが待っていた。なんと中華料理の本場、中国や香港・台湾などでは現在、かんすいを使った麺はあまり一般的ではないという。つまりマイナーな存在。どうやら日本で独自に発展を遂げた、ラーメン・焼きそばなどの和製中華料理とともに、中華麺も独自の進化を遂げたというのがことの真相のようだ。そうやって見ると日本のラーメンは、やはり和食の一種なんだな。  


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2014年07月11日

アメリカに渡ったクズ



わおぉ、これは何だ?! 少し前ネットに掲載された画像を見て、思わずのけ反りそうになったことがある。場所はアメリカの南東部。画像には、彼の地の森林や廃屋や廃車などを覆い尽くし大繁殖した、クズ(葛)の様子が写っていたのだ。そう、日本では葛餅の材料となる葛粉でお馴染みの、あのマメ科の野草だ。あらゆるものに巻き付き絡み付いたそれらのクズの葉は、まるで地球のすべてを呑み込もうとする、怪異なインベーダーのようにも見えたっけ。

それにしても日本の一般的な野草であるクズが、いつの間にアメリカに進出し、かくも大繁殖したのだろうか。調べてみると意外なことが分かった。彼の地でもクズは「Kudzu」と呼ばれているが、これは1876年にフィラデルフィアで開催された植物祭で、日本から持ち込まれ展示されたものが広がったからだとか。当初は葉を観賞用や家畜の飼料として利用したようだが、1936年に農務省が国土緑化や砂防用に栽培を奨励。以後またたく間に政府の肝いりで、堤防や高速道路の法面をガードする“緑の壁”として、こいつは大出世を遂げたらしい。

ところがアメリカ人も想定外だったのがその繁殖力。ことに南東部の気候は生育にピッタリだったようで、条件次第で1週間に2メートル以上も伸びるという成長の早さには、彼らも驚いたはず。おまけに彼の地にはクズの生育を妨害する竹やイネ科植物など、地面に根を張る植物が少なかったこともあって、まさに傍若無人の暴れっぷり。他の植物は覆い尽くすわ、建物などは埋もれてしまうわで、ついに農務省が宣言してクズは「雑草」に格下げされたのだとか。「このクズ野郎!」と役人が言ったかどうかは知らないが。

いまではやっかいな外来植物として、駆除の対象にされている彼の地のクズだが、しかしそう聞くと黙っていられないのが日本人だ。何といってもクズの根からは和菓子の材料の葛粉が採れるし、また漢方薬の葛根湯はこれを煎じたもの。つまりわれわれ日本人にとってクズは、普通の雑草とはちょいと違う伝統的な有用植物なのだ。アメリカ人も葛粉で作った胡麻豆腐を一度食べたら、きっとクズに対する見方が変わると思うんだけどねえ。

そう言えば、だいぶ前に筆者がぶらりと旅したのが、奈良県の大宇陀という所。ここは薬草のほか葛粉の産地としても知られた町で、通りには「吉野葛」の看板を掲げた数軒の老舗があり、店の奥には高価そうな商品が並んでいたっけ。今から思えばこれらはきっと、料理好きには垂涎の逸品だったはず。まあ、筆者のような面倒臭がりには猫に小判なので、特に土産に買うこともしなかったが、あれで葛きりなんか作って食べたなら、きっと極上の味がしたんだろうな。

吉野葛は厳冬期に、しっかり澱粉を溜め込んだクズの根を掘り起こし、選別して粉砕したものを何度も水で晒して、ようやく取り出した純度の高い澱粉。葛粉として精製し商品にするまでには、恐ろしいほどの手間がかかるらしい。なにしろ1kgのクズの根から、得られる葛粉は約100g。なので「白いダイヤモンド」とも呼ばれるみたいだが、これじゃ多少高価なのも仕方がないか。当地では、葛粉100%のものを「吉野本葛」と呼び、さつま芋の澱粉と混合したものを「吉野葛」と呼んで区別するようだ。



しかしクズと聞いて思い浮かぶ筆者の好物は、何といってもやっぱり葛餅。葛粉を水で溶き熱を加えてよく練り、冷やして固めたものが葛餅だが、これにきな粉と黒蜜をたっぷりかけて食べると、夏の最高のおやつになる。プルンとして透明なので見た目も美しい上、食べると何となく涼やかな気分にもなれる。また葛で餡子を包んだ葛饅頭も、見た目といい味といい極上の和菓子だ。クズの繁殖に悩まされるアメリカ人にこれらを見せたら、たぶん絶対に「アメージング!」と叫ぶだろう。

ちなみに葛餅は東西で作り方が少し違うようだ。葛粉を使ったプリンと透明なものが関西風なら、関東風はやや茶色がかった不透明な白色で、モチモチしているのが特長。筆者は浅草の「舟和」の葛餅が好物で、以前、東京から佐賀に帰省するときはいつも土産に買っていたものだが、ここのはなぜか「久寿もち」と表記してあったね。調べてみると、関東のそれは葛粉ではなく小麦粉を発酵させて作るのだとか。どうりで「葛」の字を使わないわけだが、これはこれでまた独特の食感があって絶妙の味なのだ。

ともあれ、秋の七草の一つであり“和”のイメージの強いクズが、アメリカで「デビルプランツ」と呼ばれるほど大繁殖しているとは、多くの日本人にとって意外な話だ。なぜなら日本の在来植物は、いつも外来種に浸食されっぱなしで、しまいには奴らに駆逐されそうな、脆弱なイメージがあるからだ。セイヨウタンポポも、セイタカアワダチソウやオオブタクサも、今や日本中の山野をわがもの顔で席巻している。そんな中であの地味なクズが、アメリカに大反攻をかけたのだから、まあ快挙といえば快挙じゃないか。何ごともやられっ放しは良くないもんな。

しかし先のことは分からない。将来、クズの根を掘って日本に輸出したいというチャレンジャーが、アメリカにも現れるかも知れない。あるいは彼の地で葛粉や葛根湯の商品化を始める者だって、出現しないとは言い切れない。何と言ってもビジネスに目がないアメリカ人だもの。いつか葛粉を使ったアメリカンスイーツや、葛根湯の新薬などが向こうで開発された日には、日本人もうかうかしていられなくなるだろう。  


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2014年05月22日

回転焼きの謎を探る



消費税が5%から8%に上がってひと月以上が経つが、やはり諸々の生活用品や食べ物など、けっこう割高になった実感がズシリとあるなあ。おまけに値段の表記が、店により外税だったり内税だったりで、支払いのときアレッと思ったりもする。中にはちゃっかり便乗値上げをした店もあり、筆者のはらわたは煮えくり返るばかりだ。こういう姑息なことをする店は、いずれ客離れを招き自然淘汰されるんじゃないの?

そう言えばだいぶ前の新聞記事で、消費税が上がったことを実感するため、安倍首相が日本橋三越で買物をしたという記事が載っていた。やっぱり、為政者にもちゃんと痛みを肌で感じ取って欲しいが、そのときに買ったものが、書籍や靴に大判焼きと紹介されていて、ちょっと興味深かったね。まあ書籍や靴には別に驚かないが、「大判焼き」にはニヤッとした人もいたはずだ。何といってもこれ、“庶民のおやつ”の代表格。首相はああ見えて大判焼きが好きなのかと、筆者も少し安心したのを覚えている。

もっとも佐賀県民にとっては、大判焼きと言われてもピンと来ない人も大勢いるだろう。それもそのはずで、大判焼きは佐賀では「回転焼き」と呼ばれている。なあんだ回転焼きね!というくらい、誰にもお馴染みのあの回転焼きだ。水で溶いた小麦粉と餡子を、鉄板の丸い型に入れて焼いた、ぶ厚い円盤形のこのお菓子。パンケーキのような饅頭のような不思議な美味さが魅力だが、デパ地下だろうが祭りの露店だろうが、日本国中おそらくどこへ行っても売られている、ずいぶんポピュラーな食べ物なのだ。

それだけに同じ製法同じ味でも、地域によって色んな呼び名があるらしい。例えば「回転焼き」は、九州人どうしだとすんなり通じ合う共通語だ。大分県生まれの友人にむかし聞いた話では、その名の由来は回転式の製造機だと言っていたが、「回転焼き」というネーミングにも、いかにも大衆の耳目を集めそうな新奇さが窺える。はたしてむかしはどんな製造法だったのか、型枠で焼く現在のやり方とどう違うのか、筆者もちょっと気になる。ちなみにこの名前は西日本に共通しているようで、以前聞いた大阪の天王寺生まれの友人の答えも「回転焼き」だったなあ。

「大判焼き」は、全国紙の新聞にも書かれているように、この菓子の一般的な名称のようだが、東京ではたぶん「今川焼き」の方が通りが良いんじゃないだろうか。そう、大判焼きの看板も無いわけではないが、まず東京で普通に見掛けるのは今川焼きの方なのだ。したがって九州人が東京で回転焼きを食べようと思ったら、今川焼きの店に行けば良い。なあに両者はまるで同じ物なので、回転焼きだと思って食べればノープロブレム。このあたり、東西で塩分濃度や嗜好がずいぶん違う醤油や味噌などに比べれば、甘い物というのはわりあい好みに差がないようだ。

じゃあ、今川焼きの「今川」とは何かと思って調べてみたら、どうやら東京は神田の今川橋のことで、江戸時代中期の安永年間(1772〜1780)に、この付近の町の店が売り始めたところから、その名前がついたらしい。つまり地名由来というわけ。あの織田信長に討たれた今川義元の今川家とは、何の関係もなかったのだな。神田の今川橋の地名は現在も残っており、ここからは安倍首相が大判焼きを買った日本橋三越もほど近い。なのでひょっとして首相が買ったのは、大判焼きではなく今川焼きだったのでは、などと考えるとけっこう楽しい。

意外に古い今川焼きの歴史だが、ということはつまり元祖はこちらで、「大判焼き」はその後に生まれた新勢力ということになる。それなのに全国区とはこれ如何に? そこでさらに調べてみると、なんとこのルーツは四国にあることが分かった。愛媛県にある松山丸三という食品の専門商社が昭和30年代に、獅子文六の小説『大番』からヒントを得て開発した「大番焼き機」がそれで、字を変えて「大判焼き」として器具と材料をセットで販売したところ、素人でもすぐに店が開けるということで大ヒット。瞬く間に四国・中国地方から日本中へ広がったのだという。なるほど「大判焼き」の名は、こうして全国を制覇したわけね。

四国からの“下克上”はまるで戦国時代を思わせるが、それでふと思い出すのが、筆者が東京に住む前にしばらく暮らしていた千葉県の柏市。実はこの街でも、同じものがまた別の名前で売られていた。その名は「甘太郎焼き」。いかにも童話の主人公を連想させるネーミングだが、見た目も味も今川焼きや大判焼きと全く同じものだ。どうやら千葉県や群馬県、埼玉県などを中心に、関東にはこの甘太郎一族が勢力圏を築いており、可愛い名前で客の心を掴んでいるらしい。それならいっそのこと各店が連携し、甘太郎のキャラクターをデザインして、焼き印などを押したら面白いと思うんだけど…。

しかしここまで来たら筆者もいよいよ、あの苦い体験を打ち明けるしかないだろうな。いやはや、あれは筆者がまだピチピチと若かった頃、小さなミュージアムの仕事で兵庫県の姫路に出張したときのことだった。展示デザインの打ち合わせが終わると、相手のG先生(学術担当)が、美味い名物菓子があるからぜひ土産に買って帰れという。そこで連れて行かれたのが、デパ地下だったか駅地下だったか忘れたが、とある賑やかな地下街の一角。そこにはどこかで見たような、食べ物の実演販売のコーナーがあった。

名物の名は「御座候(ござそうろう)」。地元では有名な菓子だという。とは言うものの、それはどう見ても普通の回転焼きじゃないか。まいったなとは思いつつ、G先生の強引なプッシュに逆らうわけにも行かず、仕方なく筆者は10個入りの箱を買って東京に帰ったというわけ。後はもう苦行だったなあ。当時はうちに電子レンジもなかったので、冷えて硬くなった奴を確か二、三日に分けて一人で食べたのだが、腹の中で「あのジジイ!」と叫びながら、なんとか飲み込んだのを覚えている。ま、これは「御座候」に罪はないんだけどね。

「御座候」は姫路にある同名の会社が販売しており、いわばローカル商品。ただしこのように地域によって、回転焼きは様々に名前を変えて売られている。例えば他には「太鼓焼き」や「太鼓饅頭」、「太閤焼き」に「黄金焼き」などがあり、中国地方では「二重焼き」とも呼ばれているらしい。そのバリエーションは限りなく、作り方や形にも微妙な地域差があるようだ。ことほど左様に融通無碍で庶民に人気の高い回転焼きは、まるで様々なお姿に変身する観音菩薩を思わせる。なので、今度からは筆者も手を合わせてから頂こうかな。  


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2014年03月29日

ネギの話は根が深い



佐賀人の食卓で欠かせないものといえば、薬味に使うトクワカ(常若?)だろうか。これは緑色の細いネギで香りがよく、細かく刻んだものを味噌汁やうどんのつゆなどに入れると、美味さがたちまち倍増する。しかも料理の見た目が美しい。また熱いもの冷たいものどちらにも合うので、薬味としてとても重宝だ。

似たようなネギにワケギ(分葱)というのがある。二つは実は同じものだという人がいれば、いや別の種類だという人もいる。農業にまるで疎い筆者には、この違いがどうもよく分からない。ただ、見た目はソックリだし味もまたソックリなので、どうでも良いような気もするんだけど。佐賀の野菜売場などではたまにこの球根を売っているが、トクワカとワケギのそれはどう見ても瓜二つだ。プランターに植えても、同じような芽が出て来る。

試しにネットで調べてみると、ワケギの別名の一つがトクワカと書いてあるので、やっぱり両者は同じものらしい。佐賀辺りではトクワカの名で通っているが、これはサツマアゲをこちらでテンプラと呼ぶのと、まあ似たようなものなのだろう。ちなみにこのワケギはネギとタマネギの雑種だと言い、純粋のネギとは一線を画すもののようだ。筆者が子供の頃はこれをそのまま茹でて、グルグル巻いたぬたがよく食卓に出ていたが、一度食べてみたのは良いけれど、飲み込みそこなって死ぬ思いをした記憶がある。

ワケギとよく似たものに万能ネギやアサツキという、やはり細くて緑色のネギがある。ここまで来るともう何がなんだか見分けがつかないが、実際にはそれぞれまた違う種のものらしい。案外、ネギも根が深いのだ(やっぱりね!)。例えば万能ネギは実は商標登録された商品名で、正しくは「博多万能ねぎ」といい、福岡県朝倉市のJA筑前あさくらで生産された青ネギのみをそう呼ぶのだとか。いやあ、ブランド品とは知らなかったね。純粋のネギなので、これはどうやらタネから育てるようだ。

じゃあアサツキはどうかと言えば、これまたネギとはちょっと違い、球根から育てるエゾネギの一変種だとか。葉が細くて辛みの強いのが特徴で、もともとは野草なのだという。そういえば原っぱや川の土手などに、よく似た植物が群生していたりするが、試しに採って食べるのはちと危険だからやめとこう。アサツキの名は、ネギより緑色が浅いことから付けられたようだ。ワケギや万能ネギなどよりさらに細いので、細かく刻んで和洋のスープなどに乗せると、香り高く上品な感じになるんだよね。

さて筆者は大阪のきつねうどんが大好きだが、これに乗っている青ネギとなるとまた様相が違って来る。九州のうどんのそれに比べると、ずいぶんと太いのだ。この青ネギは葉ネギとも呼ばれ、シャキシャキと噛み応えのある食感が特長だ。代表的な品種に「九条太ネギ」というのがあり、煮ると柔らかく甘みが出るので、鍋物の具材などにもよく使われる。太いのでボリュームも満点、まさにネギそのものを味わう感じだ。ちなみに「九条細ネギ」という品種もあり、これの若採りしたものが「博多万能ねぎ」になるらしい。

以前、大阪で食べたお好み焼きには、この太い青ネギの刻んだものが山のように乗せてあったが、あれは本当に美味だったなあ。小麦粉と共に鉄板の油でほど好く焼かれた青ネギは、香気といいしんなりした柔らかさといい、もうそれだけで立派なメインイベンターになる。そこにイカやエビなどの海鮮類が混じれば、さらに言うことなし。薬味としてもいいけど、煮たり焼いたり炒めたりと万能ぶりを発揮する青ネギには、思わず筆者も感謝したくなるのだ。

ところが、青いネギの勢力も西日本まで。これが関東に行くともう圧倒的に白いネギの天下なのだから、世の中そう単純じゃあない。これはたぶん西日本の人が東京などに出て味わう、カルチャーショックの一つじゃなかろうか。思えばそのむかし、筆者が佐賀から初めて上京したときもそうだった。とにかく町の蕎麦屋だろうが定食屋だろうが、どこをさがしても入った店に薬味の青いネギは見当たらず、出て来るのは白くて太くて少し硬い輪切りのネギ。いったいこれは何だ?と初めの頃は思ったね。

白いのも道理で、これは「根深ねぎ」といって栽培するネギに少しずつ土を掛け、土中で日の当たらない部分を長くして育てたものなのだ。つまり根が深いネギ。こうなると当然、日が当たる部分は健康的な緑色になり、日が当たらない部分は白くヤワに育つ。ネギも人間も同じなんだな。で、関東ではこの緑の部分を切って捨て、白い部分だけを食用として使うのだから、まあ西日本の人間にすれば「オーマイガッ」と叫びたくもなるってわけ。まさに常識の逆転だ。

しかし、慣れるとこの白いネギがまたイケるのだ。薬味として使う場合は細い千切りにして、熱い汁などに乗せれば香りも歯触りもバッチリだし、少し長めに輪切りしたものは煮ても焼いてもたいそう美味い。特長は白く長い筒の中に、甘くジューシーな芯が詰まっていること。なので関東の味の濃い汁に入れると極上の具となり、串に刺してネギ焼きにすれば最高の酒のつまみになる。ちなみに鴨南蛮やカレー南蛮などの「南蛮」とは、中の具として入っている白ネギのことを言い、別に南蛮人が発明したからではない。

そういえば、筆者がかつて何度か行った浅草の「駒形どぜう」では、名物の泥鰌の丸鍋に細かく輪切りにした白ネギを、山のように乗せて食べたものだ。丸鍋は泥鰌をそのままの形で煮込むため、見た目がちょっとという人もいる。そこを白ネギの山で隠し、しんなりと煮えたところを泥鰌と一緒に食べれば、味も香りも名コンビというわけだ。泥鰌が無くなった後、ネギだけを継ぎ足して食べるのもまた乙なものだが、あれはやっぱり緑ではなく白ネギというところが、江戸風にさっぱりして良いのだろう。

もっともこうした東西のネギ文化の違いも、最近では流通の発達により、徐々に相互の融合が進んでいるようだ。東京のスーパーでは今や、万能ネギはふつうに手に入るようになったし、所によっては太い青ネギも置いてあるようだ。佐賀でも焼き鳥屋に行けば、焼いた白ネギがちゃんと食べられる。故郷を離れた人には便利な世の中になりつつあるが、しかしあまりボーダーレスになり過ぎても面白くはないだろう。考えてみればネギの香りの中には、子供の頃からの故郷の記憶がインプットされているのかも知れないなあ。  


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2013年10月31日

銀杏の実は「秋の宝石」



銀杏の実のなる季節だ。葉っぱが黄色く染まったイチョウの木の下には、たいてい柔らかく熟れて落ちた実が無数に散らばっている。だがこのブヨブヨの果肉がクセもので、知らずに踏んづけると靴の裏がベトベトになる上、まるでウ◯コのような異臭を放つのだから始末が悪い。この季節、イチョウの木の下を通るときは、よほど足元に気をつけるか避けて行くのが賢明だろう。

実はこのイチョウには雄木と雌木があり、実のなるのは雌木の方だ。つまり、樹木なのに動物と同じく個体がオスとメスに分かれ、メスの方だけが鈴なりの実をつけるというわけ。そんな変わり者なので、雄木の下で銀杏の実を探してもそれは無理というもの。所詮、オスなどは役立たずなのだ。佐賀市街のイチョウ並木もよく見ると、びっしり実をつけた木とまるでそうではない木があるので、この話が信じられんという人は観察してみると良いかもね。

もっとも、そんな悪臭を放つ嫌われ者のイチョウの実も、果肉をよく洗い落とすと中から堅い殻の種が現れる。これを干したものが普通にいう「銀杏の実」という奴で、殻の中には極上に美味い“秋の宝石”が入っているから嬉しい。そう、茶碗蒸しなどによく入っているアレだが、筆者はこれが大好物なのだ。よく炒った白い殻を割り、中から取り出したエメラルドのような熱い実を塩で食べるとき、筆者はこの世に秋の訪れを感じるというわけ。ビールのつまみには、もう最高なのだな。

問題はこの殻を炒るときで、そのまんまフライパンや電子レンジで加熱すると、パパーンと破裂してキッチンが市街戦状態になるので要注意。大事なのはハンマーやペンチなどで、予め殻に割れ目を入れておくこと。こうすれば加熱しても破裂することはないし、食べるときも指で開けやすい。電子レンジで加熱する場合は、封筒などの袋に入れておけばなお安心というものだ。しかし美味いものを食べるときは、それ相応の注意や工夫が必要という戒めが、銀杏の実には詰まっているんだなあ。

そんな銀杏の実は美味いだけでなく、さまざまな栄養や薬効があることでも知られている。澱粉やタンパク質にビタミンなどを多く含み、ミネラル類も豊富な銀杏は、古くから咳や痰、夜尿症などの薬としても用いられて来たようだ。さらには強精効果もあるというから、これはなかなかのスグレモノらしい。言われてみれば、あのツヤツヤと美しい緑色の実は確かに神秘的ではある。

そういえば筆者が東京に住んでいた頃、正月の初詣でに浅草の鳥越神社に行ったとき、同社から「不老長寿の薬」と書かれた小さな紙袋を頂いたことがあった。帰りにその袋を開けてみると、中には数粒の銀杏の実が入っていたっけ。どうやら境内にあるイチョウの古木から落ちた実らしかったが、勿体ない気がしたのでそのまま手をつけず、帰省したおり両親に土産として渡したのを覚えている。何といっても神社の銀杏は、ことのほか効能がありそうだものな。

ただし、栄養価の高い銀杏も無闇な食べ過ぎは禁物だ。含まれる〈4-O-メチルピリドキシン〉という有毒成分により、まれに中毒症状を起こすこともあるらしい。なので美味いからといって調子に乗り、100粒も200粒も食べるのは止めといた方が良いだろう。もっとも、相撲取りでも銀杏をどんぶりで食べる人間は、さすがにいないはずだけど…。

ちなみに、イチョウのことを「公孫樹」とも書くので不思議な気がするが、これは木を植えてから実がなるのは孫の代までかかるという意味の漢名。つまり元々この木は現在の中国が原産地で、かの地から日本に渡来したのは、どうやら鎌倉時代か室町時代の中世になってかららしい。日本の秋を彩るイチョウも、もとを糾せば渡来植物だったというわけだ。

佐賀県にある巨木で有名なのは、天然記念物で樹齢千年とも言われる、有田の泉山にある「弁財天の大公孫樹」。ただし、今から千年前の日本といえば平安時代にあたり、時代的に辻褄が合わなくなってしまうが、まあこの際なので固いことは言わないことにしよう。残念ながらこれ、雄木なので銀杏の実はならないようだ。もっとも実がなったらなったで、辺り一面スゴいことになりそうだが…。  


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2013年09月28日

棒ラーメンは九州の味



夏から秋に季節が移ると、やはり温かいものが食べたくなって来る。ただし鍋ものを突つくには、まだちょっと早いし──。こんな季節の変わり目につい恋しくなるのが、麺類なんじゃないだろうか。で、そんな食の欲求に素早く応えてくれるものといえば、やっぱりインスタントラーメンということになる。むかしは「即席ラーメン」と言ったけど、思えば筆者が若い頃から、これほどお世話になった食べ物もないもんだ。

近頃はカップ入りの麺が主流だが、やはり本来は袋入りのものを自分で作り、好きな具材を乗せて食べるのが王道だろう。何といっても、コトコト鍋で煮た麺に粉末のスープを入れ、ドンブリに移すときのあのワクワクした感じがいい。つまりそこにはカップ麺では味わえない、何かモノづくりの高揚感のようなものがあるのだ。筆者の学生時代のごちそうは、これに生卵を一個だけ落としたものだったが、あれは本当にうまかったね。スープに残した半生の黄身を最後にズズーッと吸い込むときなど、もう至高のヨロコビと言ってもよかったなあ。

こんなインスタントラーメンの種類はいまや無数で、カップ麺に袋入り麺を合わせれば、どれだけの商品が出回っているのか想像すらつかない。味噌味に醤油味、塩味に豚骨味と、筆者もこれまで数えきれないほどのラーメンを食して来たが、いまだに飽きないことを考えれば、これは本当に偉大な発明品だったのだな。開発者である日清食品の安藤百福さんには、感謝してもし足りないというものだ。同社のチキンラーメンにも、むかしからずいぶんお世話になったし…。

ところが最近、筆者はある商品を“発見”して驚いている。いや正確に言えば“再発見”だが、その驚きの商品こそ何を隠そう、あの懐かしいマルタイの「棒ラーメン」なのだ。たまたまスーパーの商品棚の片隅で、ひっそりと身を潜めていた縦長の袋を見付け、何気なく買って帰って食べてみたところ、改めて「ああ、棒ラーメンってこんなに美味かったのか!」と感動したのが、久し振りの再会だったというわけ。とにかく、ストレートでコシのある細い麺といい、深みのあるとんこつスープといい、生の九州ラーメンに最も近い味と言えば、やっぱりこれに尽きるんじゃないだろうか。

思えば筆者が子供の頃から食べていた即席ラーメンとは、紛れもなくこの棒ラーメンだった。麺の上に刻んだ青ネギを乗せただけのシンプルなラーメンは、いま思い出してもお袋の味の一つであり、深夜の受験勉強のときなどはよく作って貰ったのを思い出す。その頃すでに麺を油で揚げたタイプも売り出されていたが、筆者の主な夜食といえば、やはり胃もたれしないサッパリ系の棒ラーメンが一番だったね。

そんなラーメン大好きの九州人が棒ラーメンと縁遠くなるきっかけは、たいてい地元の九州を離れて異郷で暮らし始めたときだろう。筆者の場合も高校を卒業して東京に移り住んで以来、棒ラーメンは身近な存在ではなくなった。何といっても向こうでは、どこの店へ行っても商品棚にそんなものは無く、代わりに並んでいるのは日清食品や東洋水産といった、大手メーカーの揚げ麺系ラーメンばかり。ああ、棒ラーメンは九州のローカル商品だったのかと気付いたときには、すでに筆者もズッポリとこれら揚げ麺の虜になっていた、というわけ。

ただし、こう書くとまるで揚げ麺系ラーメンが悪いみたいだが、別にそういうわけではない。あの油で揚げた縮れ麺の風味や食感などには、また棒ラーメンにない独特の良さがあり、万人を惹き付ける魔力のようなものがあるのだ。しかも、スープの種類は豊富ときている。今やこのタイプのラーメンは世界中に進出し、各国の人々から愛されているというからスゴいじゃないの。なので筆者がいつの間にか故郷の棒ラーメンを忘れ、都会のラーメンに染まって行ったとしても、誰も責めることは出来ないよね。なんだかこれって、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』のような話かな…?

かくして、東京ですっかり揚げ麺系に宗旨替えした筆者だったが、九州以外の出身者にとってこの棒ラーメンは、とても珍しい存在のようだ。かつて、友人たちと連れ立って新横浜にある「ラーメン博物館」を見学(と味見)したとき、展示してある商品などを見ながら各々、自分の地元産のインスタント麺を自慢し合ったことがあった。むろん、筆者はこのとき熱く棒ラーメンを語ったのだが、残念ながら周りはみんな九州以外の出身者ばかり。手応えの薄さにガッカリしたのを思い出す。というか、世の中にそんなものがあるのかいな?という、不思議そうな顔を誰もがしていたっけ。

まあ、油で揚げた縮れ麺しか知らない人々にとって、ソーメンみたいに真っ直ぐで束になったインスタントラーメンなど、にわかには想像し難いものなのだろう。調べてみると棒ラーメンは昭和34年(1959)に、マルタイ(福岡県)やサンポー食品(佐賀県)などが発売したのが最初で、その後次々と九州の他のメーカーも作り始めたらしい。やはりこれは、根っからの九州生まれ九州育ちなのだ。どうりで他地域の連中が知らないはずだよ。ちなみに今では「棒ラーメン」の名称はマルタイが商標登録していて、他のメーカーの商品は正しくは「棒状ラーメン」と呼ぶらしい。

今では筆者もふたたび佐賀の地に戻り、棒ラーメンはまた身近な存在になったが、とにかく硬茹でした麺のモチモチした食感や、白く細く真っ直ぐなところなどは、九州ラーメンの特長そのものと言えよう。揚げた縮れ麺に比べればボリューム感こそ劣るものの、さっぱりしたすすり易さや喉越しの良さはやはり最高だ。またそこが逆に、こってりした豚骨スープとも合うんだよね。思えばこいつの“再発見”は筆者にとり、忘れていた幼馴染みの彼女と道でばったり出会い、むかしの恋が蘇ったという感じだろうか…。  


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2013年02月15日

トムヤムクンは美味い



姪っ子のタイ旅行の土産だという同国製インスタントラーメンが、巡りめぐって筆者の元にやって来た。いかにも締まり屋の姪っ子らしいチープな土産だが、筆者はこういう珍しいものが大好きだ。気取った高級菓子などよりは、現地の庶民生活がストレートに伝わって来るようで面白い。さっそく作って食べてみることにした。

しかしさすがに南国産だけあって、派手というよりけっこうケバい感じのパッケージに入っている。タイ語で書かれているため商品名は分からないが、表のカラー写真にはドンブリの赤いスープの中に美味そうな麺が浸っており、その上には大きな海老が二つとネギや香草、鷹の爪などが散らしてある。う〜ん、どうみてもこれは辛そうだな。

袋の裏側を見ると、すべてが小さなタイ語で書かれた説明文の中に、一カ所だけ英字で「MAMA」という赤いロゴがあり、その下には少し小さく「INSTANT NOODLES」(即席麺)と書かれていた。さらにその下には、「SHRIMP TOM YUM FLAVOUR」という文字も。ははあ、どうやらこれは「MAMA」という商品名で、タイ名物の海老入りスープ「トムヤムクン」風味のラーメンらしい。

トムヤムクンは筆者も好きなタイ料理だ。少し期待に胸を膨らませながら、むかし合羽橋で買ったタイ製のドンブリを出して来る。袋を開け中をのぞくと、乾燥した麺の他にスープとオイルの小袋が1個ずつ。麺の細さから推察するに、これはきっと日本のチキンラーメンと同じ作り方なのだな。で、それらをドンブリの中にあけ、熱湯をかけ待つこと約3分間。ついに無事、タイ式ラーメンの出来上がりとなった。

味の方は、これが期待に違わぬ美味さ。おそろしく辛くて酸っぱくて、日本人には刺激的過ぎる味なのに、つい最後までスープを飲んでしまう、まさにトムヤムクンそのもののラーメンだった。ああ、久しぶりのこの味。タイのインスタントラーメンも、なかなかやるもんだ。ただし食べ終わったとたん、全身の毛穴からドバッと汗が出て来たのには参ったけどね。

トムヤムクンとはタイ料理を代表するスープで、とにかく辛さと酸っぱさと旨味が同居した複雑な味が特長だ。タイ語で「トム」は煮る、「ヤム」は混ぜる、「クン」は海老のことを言うらしい。海老やチキンの旨味に種々のハーブや唐辛子などの香辛料、それにナンプラーなどの調味料が混ざり合い、いかにも南国らしい刺激的で活力に満ちた味を生み出している。酸っぱさの秘密は、どうやら中に入れたレモンにあるのだという。

実は筆者が東京に住んでいた頃、近くにタイ料理屋があり、そこでよくランチを食べていた。ランチは千円で食べ放題のバイキング方式で、テーブルに並んだ様々な料理を自分で皿に盛り、好きなだけ食べられるというもの。味といい値段といい、きれいで上品なタイ人のマダムといい、あれはとても良心的な店だったなあ。その料理の定番にトムヤムクンがあったのだ。

タイ料理は基本的に炒め物が多く、油が多く使われている。つまりコッテリした料理が多い。なので食べ放題といえども、胃弱民族の日本人には少し荷が重い場合がある。そんなとき、サッパリしていて辛さと酸っぱさで食欲を刺激してくれるスープ、トムヤムクンは有り難い存在だったわけだ。お陰で色んなものをよく食べたっけ。

そんなわけでタイ料理やトムヤムクンは、筆者にとり思い出深い味なのだが、ちなみにいちばんのお気に入りはと聞かれたら、やはりタイカレーだろうか。様々な香辛料にココナッツミルク独特のコクと香りが混ざり合った、あの激辛の白いカレーが筆者は大好きだ。タイ料理のツートップは、トムヤムクンにタイカレーで決まり! なんだかまた腹が減って来たが、両方を一緒に食べたらきっと冬でも汗が噴き出すだろうな。  


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2013年01月14日

アンコウが食べたい



東京から佐賀に戻ってからけっこう月日が経つが、お陰ですっかり遠ざかってしまった食べ物もいくつかある。向こうではポピュラーなのにこちらではさっぱり見掛けない、といったたぐいのものだ。たとえば「中華そば」と呼ばれるスッキリ醤油味のラーメンや、辛子付きの納豆(なぜか九州では辛子がない)、割り下を使った関東風すき焼きやどじょうの丸鍋などもこっちにはないなあ。まあ食文化や嗜好の違いなのだろうが、思い出すとなんだか恋しくなったりする。

筆者にとってこの季節、そんな恋しくなる食べ物の一つにアンコウ鍋がある。アンコウ鍋といってもこれ、そうそう東京で食べられる代物ではない。本場は主に北関東の茨城県なのだ。そんなわけで筆者は向こうに住んでいた頃、冬になるとこのアンコウ鍋を食べるため、よく食い道楽の友人と茨城県まで出掛けて行ったりした。一泊二日の遠征という奴だが、我ながらご苦労なことだ。

アンコウという魚は大型の深海魚で、実にグロテスクな姿をしている。平べったい体に巨大な腹、ギザギザの歯が生えた口はまるで大きなガマグチのよう。体全体が柔らかく皮膚はヌルヌルしているため、「吊るし切り」という独特な方法で捌かれることでも知られている。まさに“怪魚”という呼び名がピッタリなのだが、これをバラして鍋に入れると、肉はもとより皮もヒレも内蔵も何でも食べられる。しかも美味なのだから、不思議というか嬉しい魚じゃないの。

中でも美味いのが、通称「アン肝」ことアンコウの肝臓だ。一度、料理屋のカウンターでこいつの全体を見たことがあるが、そのデカいのには驚いた。なにしろ「海のフォアグラ」とも呼ばれるほどだ。ただし、ボイルして薄く切ったものを薬味を入れたポン酢で食べると、いかにも肝臓らしい口の中で溶けるような食感があり、そこに独特の風味や濃厚なコクが加わって、もう掛け値なしに美味い。いや、あれは一度食べると病みつきになるんだよね。

そんなアンコウ料理を食べさせてくれるのは、茨城県の漁港などにある料理店や旅館だ。筆者らがよく行ったのは、だいたい大洗や平潟といった小さな港町の旅館。前もって宿泊を予約し、ついでにアンコウ鍋を注文しておくと当日、夕食の卓上にこいつがババンと出て来るという寸法だ。大都市である水戸市内の専門料理店にも一度入ったことはあるが、さすがにここは港の旅館に比べるとちょっと値段が高かったね。

で、その日の宿に着き、ひとっ風呂浴びてビールで喉を潤しているうち、鍋はグツグツと煮上がりいい塩梅になる。スープの味はたいてい味噌味で、鍋の中にはアンコウの身や内蔵などのほかに、白菜、ネギ、椎茸、豆腐などが入っている。このスープにはアン肝も摺り込んであるというから、やはり味にコクがあるのだな。おまけに何だか各種ビタミンやらコラーゲンやらが含まれ、ずいぶんと体にも良さそうだし…。

さあこうなったら、後はたらふく食べて飲んでバタンと寝るだけ。理想的なシチュエーションで心はリラックス、大きな口を開け料理を食い、酒とバカ話に夢中になっているうち体はポカポカと温まり、気が付けば筆者らの腹はアンコウのように膨らんでいるのだった。ああ満足──というわけだ。しかし考えてみれば、これは共食いと言えないこともないなあ。

それにしても以前から不思議なのは、アンコウがなぜ茨城県の代表料理なのかということ。まさか日本全国で水揚げするのは、この県だけというわけでもあるまいし…。そう思って調べてみたら驚いた。な、なんと水揚げ量の日本一は茨城県ではなく、九州に近い山口県の下関だというではないか。「灯台もと暗し」とはこのことだ。しかし、それがいったいなぜ…?

どうやらこれには理由があるようだ。そもそもアンコウ鍋は、水戸藩主・徳川光圀公も食したという茨城地方の郷土料理で、アン肝は珍味としてむかしから朝廷にも献上されていたのだとか。しかもアンコウは北の冷たい海で獲れるものほど、身が締まり味も良くなるのだという。まあ、何といっても冬が旬の魚だものな。なので伝統も実力も兼ね備えた茨城県は、アンコウ界のマンチェスター・ユナイテッドということになるらしい。

どうりで佐賀では見掛けないはずのアンコウ鍋だが、世間には「西のフグ、東のアンコウ」という言葉があるそうだ。フグは西日本の温かい海で獲れるものが美味く、アンコウの味は東日本の冷たい海から上がるものが勝る、という意味らしい。なるほど、という気はするけどね…。近ごろフグ鍋にも縁のない筆者が、あの美味いアンコウ鍋に再会する日は、果たしていつになるのだろうか。  


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2012年11月21日

柿の思い出



散歩コースの道沿いにあるどの柿の木も、もうすっかり実を落として裸になってしまった。いよいよ本格的に寒い冬の訪れだ。今年も筆者は貰った柿をよく食べたが、熟れた柿の実はじつに甘くてうまかったね。自宅の庭にこんな甘柿の木がある人は、本当に羨ましいと思う。もっとも柿は大量に実がなるので、実際に大きな木のある家などは、たぶん処理に困ったりするのだろうな。

しかし、考えてみれば豊かに実った柿の木ほど、秋の佐賀平野の風景に似合うものはない。山があり田んぼや畑があり、農家の脇には必ずといっていいほど、たわわに実を付けた大きな柿の木がある。おおかたの日本人の郷愁を誘う構図だ。だから筆者は、てっきり柿は日本原産の果物だと、長いあいだ思っていた。だって、どう見たってあのずんぐりした実の形は、日本人そのものだもんな。

ところがどっこい調べてみると、柿の原産地は中国の長江(揚子江)流域だというから、意外な話だ。奈良時代にわが国にもたらされたといい、平安時代に編纂された「延喜式」には干し柿や熟柿についての記述が見られるそうだ。ま、起源については諸説がありそうだが、古いことはそうとう古いのだろう。

もっとも、それで頷ける話がないでもない。というのは、筆者が子供の頃読んだ『西遊記』の中に、柿が登場するからだ。これは確か、三蔵法師一行の前に立ちふさがった七絶山の腐った柿の実を、身のたけ百丈あまりの大豚に化けた猪八戒が、ブルドーザーみたいにかき分けて道を造るという話だった。三蔵法師のモデル、玄奘がインドに渡ったのが629年。日本でいえば大化改新のちょっと前あたりだが、『西遊記』の中に柿が登場するということは、それが作り話にしろ、かの国に昔から柿が自生していたということ。いわれてみれば、やっぱりそうだったかという気がしないでもない。

ところで行ったことはないが、ギターの名曲「アルハンブラの想い出」で有名な、スペインのアルハンブラ宮殿には、柿の木があることが知られている。フランシスコ・ザビエルが持ち帰ったという説もあるが、ウソかまことかは別にして、それが日本から渡ったことだけはどうやら本当らしい。その証拠に、スペインでは柿が普通に食べられていて、その名も現地語で「カキ」と呼ばれているのだとか。

そればかりか、ポルトガル語やイタリア語でも、柿は「カキ」というらしい。どうやら柿は、 16世紀頃にポルトガル人によってヨーロッパに渡り、その後アメリカ大陸にも広がったというから、ちょっとビックリだ。どうみても日本的で田舎っぽいイメージの柿が、外国でフルーツとして食されているなんて、筆者には何だかピンとこないのだが…。そこで調べてみると、柿の学名は[Diospyros Kaki]。ちゃんと「カキ」という名が付いているところが、すごいじゃないか。意外にこいつ国際派だったのだ。

ではどうして中国原産の柿が、「カキ」という日本語で海外に広まったのか? これは素朴な疑問として、誰もが感じることだろう。答えはこういうことらしい──中国にもともとあった柿は渋柿で、それが日本人の手で品種改良され、甘柿が作られた。つまり、あの甘い柿は日本生まれで、それがフルーツとして海外にも広まったというわけだ。渡来品を換骨奪胎して、たちまち優れたオリジナルを作ってしまう日本人の得意技は、昔からちっとも変わらないんだなあ。

現在、日本の柿の産地には和歌山県や奈良県、福岡県などいろいろあるようだが、筆者にはその一つ、岐阜県にちょっとした思い出がある。というのも、そのむかし関ヶ原の古戦場を訪ねた歴史好きの筆者が、帰りに大垣駅の売店で見付けたのがなんと「柿羊羹」。これは半割にした孟宗竹に、柿でつくった羊羹を流し込んだもの。竹の容器ごと売られており、珍しかったので筆者はさっそく買って帰ったというわけ。

あの辺りが富有柿の産地だということをそのとき初めて知ったのだが、しかし持ち帰って食べたあの独特の味も、ちょっとしたカルチャーショックだったね。何というのか見た目は羊羹なのだが、味や香りは干し柿そのもの…。世の中、こんな羊羹があったのか!なんて、「小城羊羹」大好きの筆者はそこで“新しい天体”を発見したのだった。ちなみに容器の孟宗竹はその後、しばらく竹踏み用に使ったっけ。  


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2012年11月10日

フィリピンバナナが安い!



最近、スーパーなどに行くと特売のバナナをよく見掛ける。まだ少し付け根の部分が青い若々しいバナナの房が、ワゴンの上に山盛りになったりしているのだ。これが驚くほど安いので筆者などはつい買ってしまうのだが、やはり子供の頃にバナナが高級品だったという積年の恨みが、ついそうさせてしまうのだろうか。ともあれ、安いバナナはいい。

これらの特売バナナはフィリピン産で、もともと日本のバナナの多くは同国からの輸入ものだとか。だが、これが近ごろ店頭で値下がりしているのには、どうやら事情があるようだ。それも国際的な、ちょっとキナ臭い裏事情が…。ズバリ言えば、そこにはあの中国の影があるのだという。

東南アジアの島嶼国家フィリピンは、南シナ海にも多くの島々を抱えている。そこへ、近年になって進出してきたのが中国だ。かの国は、軍事力を背景に南シナ海に覇権をとなえ、そこにある島々の領有権をめぐって、東南アジア諸国と紛争を繰り返している。相変わらずヤクザな国だ。フィリピンもその相手国の一つで、南沙諸島やスカボロー礁の領有権問題で、両者は激しく対立しているという。なにしろ、それらの海は豊かな漁場らしいのだ。

例によって中国は、フィリピンにいろんな圧力を掛けている。その圧力の一つが同国の農産物にも向けられ、これまで輸出用バナナのお得意様だった中国は、今年になって大幅に検疫を強化。これは事実上の輸入規制で、フィリピンのバナナ産業は大打撃を被ったらしい。「そんなバナナ!」という奴だ。どこかで聞いた話だと思ったら、これは尖閣諸島の領有権を主張して、近ごろわが国に様々な嫌がらせをして来る中国の、お得意の行動パターンではないか…。

で、中国向けバナナの輸出が減り、困り果てたフィリピンが頼りにしているのが、この日本というわけ。いまやわが国へのバナナ輸出量は急激に増え、その価格がグンと下がっている。お陰で筆者も、安いバナナの恩恵にあずかっている──。まあ、何だか長い講釈になってしまったが、結果には必ず原因があるということだ。これは、世界がグローバル化している一つの証しでもあるのだろう。

しかし、対中国という立場でいえば現在、日本とフィリピンはとてもよく似た状況にある。軍事力にモノを言わせたかの国の横車に対し、両国は一歩も引くわけには行かないのだ。それに、フィリピンは親日国だものな。同病相哀れむじゃないが、ここはわれわれ日本人もフィリピンを助けるため、せっせと同国産バナナを食べるべきだろう。つまり、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな中国と闘うには、バナナでタッグを組む方が良いということだ。

そんなわけでバナナはいま食べどきなのだが、ただし、いくら安いといっても気を付けなくてはならないこともある。それはまだ少し青っぽいものを買ったときで、これをすぐに剥いて食べても、身はまだ硬く甘みも香りも少ないため、たいていの人はガッカリすることになる。慌てる乞食はナンとやら──。熟成してない果物は熟成してない人間と同じで、煮ても焼いても食えないんだよね。

筆者ならこんな青っぽいバナナはすぐには食べず、ビニールなどの密閉した袋に入れてしばらく寝かせておく。で、常温で一週間ほど置いておくと、中でエチレンガスがよく回り、黄色く熟れた状態になる。いちばんの食べごろは、黄色い皮の表面にソバカスのような斑点、つまりスイートスポットがポツポツ現れたときで、このときならもう甘みも香りも十分なのだ。ただし、この斑点が黒く大きくなりすぎると、熟れ過ぎて中身が少しグチャッとした感じになるので要注意。

ほどよく熟れたバナナは本当にうまい。しかも、他の果物に比べてベラボーに安いのも魅力の一つだ。「お腹がすいたらス◯ッカーズ」というチョコレートのCMがあるが、あんな甘いお菓子より一本のバナナを食べる方が、はるかに低コスト低カロリーで満腹感がある。しかも、カリウムやマグネシウムにビタミン類も豊富なバナナは、立派な健康食品でもあるもんなあ。ここはやはり、東南アジアのタッグパートナーを助けるためにも、「お腹がすいたらバナナ」にするべきだろう。  


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2012年09月22日

グリコ創業者に学びたい



江崎グリコといえば、チョコレートやキャラメルなど、菓子メーカーとしては日本を代表する企業の一つだ。菓子だけではなく、カレールーなどの食品でもお馴染みで、日常のいたる所でグリコ製品をよく見掛ける。筆者も子供の頃はアーモンドグリコをよく食べたものだし、長じてデザインの仕事をするようになってからは、ポッキーを齧りながらというスタイルが身に付いてしまった。近ごろのお気に入りは、コロンのあのサクサクトロリとした食感かな。

そのグリコの創業者が佐賀県の出身者だということは、普通の佐賀県人なら知っているだろう。そう、その人の名は江崎利一。そんな縁があるせいか、本社を大阪に移した後もグリコは佐賀の地を大切にし、現在も佐賀市内の神野公園近くに九州グリコの大きな工場を置いている。つまりグリコは、佐賀県ときわめて縁の深い企業なのだ。

といっても、別に筆者はグリコの回し者ではないし、同社からポッキーの箱詰めを貰ったわけでもない。まあ早くいえば無関係。ただ今回、グリコについて書いてみたくなったのは、たまたま開いた同社のウェブサイト「江崎記念館」を見ていて、素直に感動したからなのだ。そのコンテンツの一つ「創業者江崎利一」は、マンガ仕立てによる同社創業のドラマ(ムービー)だが、すべての佐賀県人に一度は見て欲しいような良く出来た内容になっている。そこのところを、ちょっと紹介したくなったというわけだ。
http://www.glico.co.jp/kinenkan/richi/richi.htm

ドラマは6話で構成されている。1話目は明治15年に佐賀県神埼郡蓮池村で生まれた利一少年が、貧しさに負けず高等小学校を一番の成績で卒業し、商人を目指すまで。そのとき恩師から、自分が儲けるだけではなく商品を買った人にも得をさせよ、と諭されたことが後に活きることになる。2話目は成人した利一が大阪に出る話で、そこでヒントを得て葡萄酒の計り売りで成功するものの、なんとか佐賀の特産品で勝負できないかと思案する姿が描いてある。

3話目は、有明海の漁師が捨てていた牡蠣の煮汁を見た利一が、そこに含まれる豊富なグリコーゲンから、栄養のある菓子を作ろうと思い至るまでのお話。第4話はようやく完成したグリコーゲン入りのキャラメルを、四角形ではなくハート形にして商品化し、グリコーゲンからとった「グリコ」という名前で売り出すまで。あの特徴のあるマークや「一粒三百メートル」というキャッチコピーも、このとき生まれたのだ。

第5話では大阪に本社を移した利一が、老舗百貨店の三越に「グリコ」を納品するまでの苦労が描かれ、それが売れるようになると今度はおまけ付きのグリコを発案し、これがまたまた大ヒット。ついに東京進出を果たすというお話だ。そして最後の第6話では、アメリカ視察で出会ったアーモンドから、あの大ヒット商品のアーモンドグリコやアーモンドチョコレートを生み出すまでが描かれている。このときの彼のすごいところは、一口分のチョコレートにアーモンド一粒という形に拘ったこと。砕いたアーモンドをチョコに混ぜるのでは、普通の板チョコと変わらないというわけだ。なるほどなあ。

しかしこうしてドラマを見て来ると、そこには江崎利一という人物の創意工夫とともに、ビジネスを成功させるための多くのヒントが隠されている。それはたぶん現代にも通用する、とても普遍的なものなのだろう。例えば少年の彼が恩師に諭された、自分が儲けるだけではなく買った人にも得をさせよという教えは、現代でいう「顧客満足」に繋がるはずの考えだし、牡蠣の煮汁に含まれるグリコーゲンを利用した、“栄養のある菓子”というアイディアも、独創的かつ先進的で素晴らしい。

なにより感心するのは、商品のオリジナリティへの徹底的なこだわりだ。開発したグリコをハート形にしたのは、他社の四角いキャラメルとの違いを打ち出すためだし、アーモンドチョコレートに一粒ずつアーモンドを入れたのも、前述したとおりだ。おまけグリコのアイディアもそう。とにかく他人の真似はしない、他社とは違うものという商品の差別化戦略が、江崎グリコを今日の大企業にした要因なのだろう。

それに利一さんは発想もユニークだ。キャラメルではなく「グリコ」としたネーミングのセンスも、一等でゴールするランナーのマークも面白いし、誰が考えたかは知らないが「一粒三百メートル」や「一粒で二度おいしい」というキャッチコピーは、あの時代の中では群を抜いている。だいいち原点の、牡蠣の煮汁とキャラメルを結び付ける発想は、普通の人にはできないよね。

中でも筆者が評価したいのは、若き日に大阪に出たこの人が、なんとか佐賀の特産品で勝負できないかと考えたこと。大都会で徒手空拳から商売して成功するには、やはり自分のアイデンティティを見つめ直すことが必要だったのだろう。他人と同じことをしてもダメなのだ。そこから閃いたのが有明海の牡蠣の煮汁であり、それがグリコの誕生に繋がったわけだ。これらは現代の佐賀県人も、おおいに参考にすべき話じゃないのかな。  


Posted by 桜乱坊  at 12:23Comments(0)食べ物など

2012年03月26日

菜の花をおひたしにする



最近はずいぶん明るい時間が長くなり、日ごとに春らしさが増して来た。太陽の光も、すっかり優しくなったのを感じる。つまり、散歩には最適な季節の到来というわけだ。ふだん運動不足の筆者も、このままでは中性脂肪や血糖値がヤバいことになりそうなので、週末はなるべく外に出て歩くようにしている。

そこで目につくのが、散歩コースの川べりや田んぼのあぜ道を埋め尽くした、黄色い菜の花の群生だ。これが実に美しい。どこまでも続く鮮やかなレモンイエローの花の群れが、風を受けてあわあわと揺れるさまは、まるでファンタジーの世界をさえ思わせる。日本の春の色はと聞かれて誰もがイメージするのは、やはりこの菜の花の黄色と桜の花の薄いピンクじゃないだろうか。

もっとも、今でこそ菜の花の群生といえば川べりか田んぼのあぜ道が相場だが、筆者の子供の時分はそうじゃなかったね。小城の田んぼという田んぼが一面、春には菜の花の色で埋め尽されていたのだ。そう、♪菜の花畑に入り日薄れ〜、という唱歌『朧月夜』に歌われたあの「菜の花畑」だ。当時は水田の裏作として農家が菜種油用にアブラナを栽培していたため、佐賀平野の田んぼは春の到来とともに、鮮やかな黄色一色に染められたというわけ。いま思えばあれは、夢のような風景だったんだなあ。

そんな菜の花だが、日本原産と思いきやどうもそうではないらしい。原産地は地中海沿岸といい、農林水産省のウェブサイトによると、日本へは弥生時代に中国から渡来したのだとか。どうやらこの花は、ずいぶん大昔から日本の春の景色を彩っていたようだが、だとすれば弥生人も風に揺れるあの黄色い花のウェーブに、きっと感嘆の声を上げたことだろう。

ただし、もともと菜の花は食用の野菜として栽培されていたようで、その実から油を搾るようになったのはずっと後の時代からだ。司馬遼太郎の小説『国盗り物語』を読むと、主人公の油商人・松波庄九郎(後の斎藤道三)の商うのはもっぱら荏胡麻油で、それが菜種油に取って代わられたのは、道三の死後のこと。筆者には史実はよく分からないが、いずれにしても菜の花が油を採る目的で、本格的に日本中の田んぼで栽培されるようになるのは、どうやら江戸時代になってかららしい。

そんなわけで筆者もわが国の先人に敬意を表し、もっぱら菜の花を食べるようにしている。というか、この時期の菜の花のおひたしは、とにかく美味い。これを食べずしてもう日本の春は語れないほど、季節感に富んだ絶妙の味と香りと歯触りなのだ。まあ、一度はまるとクセになるという奴かな。

なので筆者はこのところ、散歩に出るたびに菜の花の群生を見付けては、まだ花の咲く前の蕾のついた茎を摘み、持ち帰るようにしている。なにしろ数は無尽蔵だし、野草なので誰からも料金は取られないし、言うことなしだ。若々しい茎は、指先でちょっと曲げるだけで簡単に折れてしまうほど柔らかい。ただし花の咲いたものや、太くなり過ぎて容易に折れない茎などは、食べない方が無難だろう。

こいつを片手いっぱい集めると、ちょうどおひたし一椀の分量だろうか。春の野に出て若菜を摘めば、時間はあっという間に過ぎてしまう。なんだか古代の歌人にでもなったような優雅な気分だが、わが衣手やズボンはたちまち黄色の花粉だらけになってしまうので、ちょっと注意が必要だ。

持ち帰ったものをおひたしにするときは、とにかく茹で過ぎないことが肝心。サッとゆがいたらすぐに冷水にさらし、しっかり水気を切ったものじゃないと、あのシャキシャキした食感や独特の苦味は味わえない。これをだし汁に浸したものが「おひたし」で、誰でも出来る簡単料理の完成だ。古代人になった気分で口に入れると、舌の上にパァッと春の息吹が広がるようで、また次の散歩が楽しみになるというわけ。東京時代には味わえなかった、健康的なサイクルだなこれは。  


Posted by 桜乱坊  at 15:54Comments(0)食べ物など

2012年02月25日

駄菓子といえば「雀の卵」

テレビのバラエティ番組で以前、駄菓子の人気ランキングというのをやっていた。この手の番組はあまり好きではないが、わりと面白そうな企画だったので見るともなく見ていたら、そこではいろんなお菓子がランクインしていたっけ。ラムネ菓子やココアシガレット、麩菓子といった筆者らが子供の頃によく食べたものから、よっちゃんイカにベビースターラーメンといった名の売れたものまで、様々な商品が顔を揃え、こちらもつい惹き込まれるように見てしまったね。

番組の趣向はランクの10位から順に商品を紹介し、最後の1位をタレントに当てさせるというもの。筆者はたぶん1位はアレだなと見当をつけていたのだが、残念ながら正解は「うまい棒」という菓子で、みごとにスカを引いてしまった。しかし「うまい棒」なんて、筆者は見たことも食べたこともないもんなあ。これも時代の流れという奴か…。

それにしても筆者のお気に入りのアレは、ベスト10にも入っていなかったが、これにはちょっと異議を唱えたい。安くて美味くて子どものおやつに最適で、おまけに大人のビールのつまみにもなる、スーパー万能駄菓子のアレを忘れるとは、いったい番組の制作者は何を考えているのやら。一度会って両方の鼻の穴に、アレを目いっぱい詰め込んでやろうか──。そんな怒りがフツフツと沸いて来た。そう、むろんアレとは「雀の卵(すずめのたまご)」のことだ。



「雀の卵」とは、筆者がまだ幼稚園の頃から大好物だったお菓子の名前。当時からそう呼ばれ、ふつうに近所の駄菓子屋で売られていたが、その頃の価格は2個で1円だったかな。名前の通り小さな卵の形をしており、カリッと焼いて甘い醤油味をつけた小麦粉の殻の中に、ピーナツが1個入っている。うまそうな茶色の殻には、細く刻んだ海苔などもまぶしてあり、これをサクサクと奥歯で噛み砕くと、口の中に甘い醤油とピーナツと海苔の香りが広がって、もうたまらないほど幸せな気分になれるのだ。

甘いお菓子ではないので何個食べても飽きがこないし、なによりあの醤油味の殻を噛み砕くときの歯触りが何ともいえない。子ども向けの駄菓子なのだが、どこか大人にも合う風味も備わっていて、筆者などはいまでもよく食べている。ビールやワインの脇に置くと、駄菓子とは思えないほどピッタリ合う逸品なんだよなあ、これが。

そんな「雀の卵」の小袋入りは、佐賀ではスーパーの駄菓子コーナーで売られており、大きな袋入りは酒のつまみコーナーでもよく見掛ける。駄菓子のくせに、なかなか活動範囲の広い奴なのだ。ただし、手に取ってよくパッケージを見ると、似たような菓子をいくつもの会社が出していることに、誰もが気が付くだろう。つまりそっくり商品という奴で、名前も「雀の卵」だったりそうでなかったり…。

どうも「雀の卵」は登録された商標なのか、こうしたタイプの菓子の一般名称なのか判然としないのだ。そんな中で、ズバリ「雀の卵」という商品名で販売しているのが、大阪屋製菓という会社であることに筆者はこのごろようやく気が付いた。おお、大阪で作っていたのか──そう思ってパッケージをよく見ると、なんと会社の所在地は鹿児島市になっている。よく分からないが、何だか肩すかしを食らったような。

だが筆者の長い東京暮らしの間にも、向こうではまるでこの「雀の卵」を見掛けなかったことを考えれば、これは案外なるほどと納得が行く話ではある。つまり鹿児島生まれの「雀の卵」は、九州ローカルの駄菓子なのかも知れないのだ。ふんふん、そうかそうかもね。そうだとしたら、東京のフジテレビが制作したランキング番組で、シカトされたとしてもまあシカト…、いや仕方ないかも知れないなあ…。

などと考えながら「雀の卵」の一粒を口に入れると、どうも近ごろのこいつは奥歯の間でサクサクと軟らかく、味も美味しくなっているような気がする。むかしはもっと殻が硬く、こんなに甘口ではなかったと思うのだが…。駄菓子もどうやら時代とともに、大衆の嗜好に合わせて徐々に改良されているのだろう。筆者にとっては昔なじみのこの豆菓子、いつかは全国の駄菓子ベストテンにぜひランクインしてほしいね。  


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2010年07月08日

佐賀の夏には胡麻豆腐

暑い季節にはやはり、冷えた胡麻豆腐が食べたくなる。舌に乗せるとトロリと溶けてその瞬間、胡麻の甘い香りが口から鼻腔いっぱいにフワッと広がる胡麻豆腐は、佐賀県人には堪えられない味覚だ。ミソだれをかけて食べるのが一番だが、もちろんポン酢でも悪くはない。とにかく食前のお酒のアテによし、食後のデザートによし、子供や女性だったらご飯のおかずにもなる。そんな超絶的な一品が胡麻豆腐なのだ。

もっともこの胡麻豆腐、佐賀では普通にスーパーなどで売られているポピュラーな食べ物だが、他の地域ではどうもそうではないらしい。筆者が東京に住んでいた頃、友人と入った小料理屋で一度、メニューに「胡麻豆腐」を見付けたことがあった。ヤッホー、東京でこいつが食べられるとは! 喜んでさっそく注文した筆者だったが、出て来た「胡麻豆腐」を見たときの失望感は、もうなんと言ったらいいのか…。

見た目は、普通の木綿豆腐と何ら変わらぬ白い直方体。でも、もしかしてひょっとして。かすかな希望を抱きつつ、その一片を箸でつまみ恐るおそる口に入れたとき、ああ、失望は絶望に変わったなあ。オオ、マイ、ガッ!

そう、そこで食べた「胡麻豆腐」は、ちょっとだけ胡麻の香りがする、やっぱりただの木綿豆腐だったのだ。おそらく、普通の豆腐の中にすり胡麻でも混ぜてあるのだろうが、それは何と言おうと筆者が子供の頃から知っている、あの胡麻豆腐ではなかった。連れの東京生まれの友人に、佐賀の胡麻豆腐がどういうものか、そしてどんなに美味いか一生懸命説明してはみたものの、はたしてどこまで伝わったのやら。結局、その前もその後も東京ではどこへ行こうと、ついぞあの香り高い“本物”に出会うことは叶わなかったね。



まあ名前は「胡麻豆腐」だが、もともと佐賀人がよく知っているそれは、正確に言えば豆腐ではない。だいいち、材料には大豆を使わないのだ。炒った胡麻をすり潰し、よく練ったものを葛粉で固めたのが、正真正銘の佐賀の胡麻豆腐。つまり正しくは、「練り胡麻葛餅」とでも言うべきものなのだ。

メーカーによって多少の違いはあるようだが、色はだいたい褐色系をしている。溢れるような胡麻の香りとほのかな甘味が最大の魅力で、豆腐にはないツヤとプルプルした弾力性はまるで食卓のプリンのよう。う〜ん、たまらん。──なんてことをいくら説明したところで、東京に住んでる筆者の友人たちはやっぱり、誰も理解してはくれないのだろうなあ。

そもそも胡麻豆腐は、そのむかし禅宗の僧によって中国から日本に伝えられた、寺院の精進料理だったらしい。なので、今でも精進料理の店では定番の一品になっているようだし、寺の宿坊などの食事にも出るようだ。佐賀のスーパーなどで売っている胡麻豆腐は、それを万人向けの味に改良して商品化した、優れた発明品なのだろう。

何といっても健康食品の代名詞のような、胡麻のエッセンスを固めたのがこの食品。体に良いことは間違いなさそうで、食欲や体力の落ちる暑い季節にはもってこいのスグレものだ。おまけに味は絶妙ときている。筆者などは、食えと言われればいくらでも食えるのだ。

そんな胡麻豆腐を東京でまるで見掛けなかったのは、不思議という他はない。九州では他県でも売られているようだし、関西の京都や奈良、北陸の福井あたりでは名産のものもあるらしいが、この分布のバラツキにはなにか理由があるのだろうか。やはり考えられるのは古くからの禅宗寺院の存在だが、江戸にだって禅宗の寺などはいくらでもあっただろうに。なぜ東京では胡麻豆腐を見掛けないのか──誰か研究している人がいたら、ぜひ教えて欲しいものだ。  


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2009年09月16日

やっぱり小城羊羹

このごろは冷たい麦茶より、熱いお茶の方が恋しくなって来た。いよいよ電気ポット復活の季節だな。で、やっぱり熱いお茶と来れば、小城生まれの人間としてはまず小城羊羹なのだ。たまに食べる小城羊羹は、本当にうまい。小城の人間に言わせれば東京の虎屋の羊羹などは、「食えたもんじゃなか!」ということになる。

ひとくちに小城羊羹と言っても小城には現在、二十軒以上の羊羹屋があり、その味は店により微妙に違う。軟らかめのものがあればけっこう硬めのものもあり、甘さや香り、舌触りなどもちょっとずつ異なっている。なので羊羹にうるさい小城人はみな、それぞれ自分好みの店の羊羹を買って食べている。つまり、町じゅうが羊羹評論家みたいなものなのだ。



筆者のオススメの羊羹は、大手町にある「岡本為吉本舗」のもの。とにかくここの羊羹は文句無くうまい。他店のものに比べると断面の形がやや横長で、見た目のボリューム感には欠けるものの、紅い半透明の色合いは誠に美しい。舌に乗せるとトロリと溶けるような食感が絶妙で、かつ甘さや小豆の香りが何とも言えないほど案配がいい。まさに職人芸の極致といった味なのだ。

この「岡本羊羹」は他店のように表通りには面しておらず、人影少ない大手町の裏店風といった感じ。羊羹のパッケージも古色蒼然とした地味なもので、今風のデザインなんぞ「知らんくさ!」といった潔さなのだが、そこがまた職人気質を物語るようで地元では人気が高い。少量生産らしく、時間によっては売切れの場合も多いのだ。店舗数を増やし大量販売で攻勢をかける大手メーカーがある一方で、こうした岡本羊羹のような、少量売切り型で“職人の味”を守るやり方も、また小城羊羹を支える大事な片翼なのだろうな。



こんな小城羊羹は、小城の人が思っている以上に他県でも知られている。特に同じ九州人の間では知名度は抜群だ。筆者がかつて東京の仕事先や飲み屋などで出会った九州出身者たちは、こちらが「佐賀県の小城の生まれです」と自己紹介すると、異口同音に「ああ、あの小城羊羹の」と答えてくれたものだ。小城は知らなくとも、小城羊羹はだいたいみんなが知っていた。あれは嬉しかったと同時に、ちょっと意外だったなあ。

ことほどさように小城羊羹は、小城を代表する銘菓であり重要な地場産業なのだが、しかしどういうわけか地元の人々はこれを、「町起こし」のために積極的に活用しようとはしていない。そこが筆者には、見ていて歯痒いところなんだよね。他所の市町村が「町起こし」「村起こし」のため、やれ“餃子の町”だの“にんにくの村”だの、特産品のPRに躍起になっているというのに、小城のこの無頓着ぶりはどうしたことだろう。

ネットで調べても、小さな町の中に二十軒以上の羊羹屋がひしめく、こんな“羊羹の町”は他にはない。なにより県庁所在地の佐賀市民は、平均して日本一羊羹を購入する人たちなのだ。これはひとえに、すぐ隣にうまい羊羹の生産地があるから。そう、つまり小城は名実ともに「日本一の羊羹の町」なのだ。こんなユニークなセールスポイント、町起こしに活用しない手はないんじゃないの?

そこで筆者はアピールの方法を考えた。まずは市と業界が声を揃えて、「日本一の羊羹の町・小城」を宣言すること。これは他所に油揚をさらわれる前に、早くやった方が良い。同時に町の玄関である小城駅前に、この宣言を明記したモニュメントを建立する。これで町起こしの「意志」が一つの形となり、シンボルとなって人々の心を動かすのだ。町の羊羹屋さんの店先には、この「日本一の羊羹の町」を染め抜いた統一デザインの幟などを立てると、また威勢が良くなっていいんじゃないのかな。何といっても「日本一」なのだから。

小城羊羹をPRしてくれる、オリジナルキャラクターなども欲しいところだ。ポスターやパッケージに土産物のフィギュアなど、活用方法はいろいろあるだろうが、小城羊羹の甘さとまったりした食感をシンボライズした、癒し系のキャラクターなら筆者もうれしい。なめると甘い味がする着ぐるみなんか面白そうだが、これはちょっと不潔かも知れないなあ。

他には年に一度の「羊羹まつり」や、月に一度の「羊羹市」などを企画して、どんどん観光客を集める。また商店街の空き家を利用して、観光客のために羊羹の無料味見どころなんかを作ったらどうだろう。むろんそこは休憩所も兼ねていて、地元の老人たちも集えるようになっている。羊羹は賞味期限の近付いたものを、各店にタダで提供してもらうというわけ。お茶を飲みながら老人たちが地域ガイドをすれば、観光客にとっても便利な上に心のこもった交流もできる。

他にもいろいろなアイディアがあるだろうが、とにかく「日本一の羊羹の町・小城」がこのままでは勿体ない。町起こしはまず、地元の良さを発見するところから始まる。やれることは何でもやらないと。手をこまねいていては、地方都市はますます埋没して行くばかりだからね。  


Posted by 桜乱坊  at 14:49Comments(5)食べ物など