2021年04月30日

唐津が生んだ建築家・辰野金吾



先日、陽気の良さに誘われて唐津の街をブラリと歩いてみた。そもそも小城生まれの子供だった筆者にとって、唐津は山のあなたの空遠くにある、潮の香りに包まれた憧れの街だった。何たって玄界灘に面した観光地だし、有名な祭の唐津くんちはあるし…。それが今では町村合併により、天山のてっぺんで小城市と唐津市は隣どうしになってしまった。なんだかマジックのような話だが、あるんだなあこんなことが。

で、唐津市に着いてとりあえず目に入ったのが、街の中にあった古風な煉瓦造りの洋風建築。調べてみると旧唐津銀行の建物で、現在は「辰野金吾記念館」として無料公開されているらしい。無料と聞くとどこにでも入るのが筆者の習性。しかも辰野金吾といえば、あの東京駅丸の内駅舎を設計したことで知られ、日本の近代建築の父とも呼ばれる著名建築家だ。佐賀県人なら、武雄温泉の竜宮城のような楼門の設計者として、知らない人はいないはず。期待とともにさっそく、筆者は入口の石段を登ったのだった。

中はいかにも銀行らしい造りの瀟洒な空間で、それぞれの部屋ごとに辰野の人物像や、彼が設計に携わった建物についてなどが展示してあった。しかしこの人、あらためて見ると随分すごい仕事をした人だったんだな。まず何より、日本人の誰もが知る有名建築を、数多く手がけていることに驚く。特に有名なのは前述した東京駅だが、それ以外にも日本銀行本店や大阪市中央公会堂、奈良ホテルに日本銀行小樽支店などなど、枚挙にいとまがない。堅牢なそれらの建物は、今もしっかり残っている。また、残念ながら取り壊されてしまったが、あの数々の格闘技の舞台となった日大講堂(旧国技館)も、この人の手になるものだったと思うと感慨深い。

展示場の二階には、こうした名建築の模型なども展示してあったが、感慨深いといえば筆者はやはり、東京駅の模型の前で立ち止まってしまったね。何と言っても、思い出すのは映画『シン・ゴジラ』の一場面。最後の戦いとなる「ヤシオリ作戦」で、無人列車に突っ込まれたゴジラは、ついにヨタヨタと東京駅に倒れかかる。そしてグシャグシャになる駅舎。しかしそこは堅牢なる名建築、全壊せず半壊でとどまったのは、さすが辰野先生の実力と言うべきか…。などと勝手に想像して、楽しんでみたというわけ。

その辰野金吾は嘉永7年(1854)、唐津藩の下級武士の子として生まれている。同じ年に江戸で生まれたのが後の宰相・高橋是清。若くしてアメリカに留学した高橋は帰国後、唐津に開設された洋学校「耐恒寮」の英語教師に赴任し、そこで辰野の先生になったというわけ。このときの門下生には、同じ唐津出身の著名建築家・曽禰達蔵もいる。近代日本を代表する建築家の二人が、ともに唐津生まれの同窓生なのだから、唐津市民はもっと誇っても良いんじゃなかろうか。ちなみに唐津からは後に、昭和を代表する建築家・村野藤吾も生まれている。唐津は建築家の宝庫なんだな。

高橋是清のもとで英語を学び、西洋の学問への興味に目覚めた辰野と曽禰は明治6年(1873)、東京に設けられた工学寮(現在の東京大学工学部)の入試に合格。二人は造家学科(今の建築学科)を選び、建築家への道を歩み始める。明治10年(1877)には、ロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルが、工部大学校(工学寮を改称)の造家学教授に就任。コンドルといえば、あの鹿鳴館やいまも神田駿河台にあるニコライ堂の設計者として知られる人物だ。辰野はこのコンドルの薫陶を受け、猛勉強のすえ2年後に首席で卒業、ついにイギリス官費留学の栄誉を手に入れたのだった。

渡英した辰野は、コンドルが所属したウィリアム・バージェス建築事務所やロンドン大学で学んだ他、フランスやイタリアの建築も見て回り、明治16年(1883)に帰国。翌年にはコンドルが退官した後の、工部大学校教授の座に就いている。ちなみにコンドルという人は、よっぽど日本が気に入ったようだ。河鍋暁斎に入門して日本画を習ったり、花柳流の舞踊家だった日本女性と結婚したり、日本の芸術を紹介する著作物なども出している。亡くなったのも麻布の自宅で、現在は東京都文京区の護国寺にある墓に、夫人と共に眠っているという。

辰野は大学で後進の指導にあたりながら、本来の設計の仕事にも取り組み始める。処女作となる銀行集会所が竣工したのは明治18年(1885)で、このときの依頼者は第一国立銀行頭取の渋沢栄一。代表作の一つ、日本銀行本店の設計に取りかかったのは明治20年(1887)のことで、彼が設計を担当することになったのも、恩師・高橋是清と渋沢栄一の協力があったためだとか。竣工したのは明治29年(1896)で、正面から見ると実に堂々としたデザインだ。もっとも、この建物の一階平面図を見ると、みごとに「円」という字になっているのがちと笑わせる。これも辰野先生の〝遊び心〟だろうか。

数々の実績を残した建築家・辰野が、いよいよ東京駅の設計に取り掛かったのは明治39年(1906)。当初はドイツ人のフランツ・バルツァーが設計するはずだったが、バルツァー案は和洋折衷のデザインだったため不評で、代わりに西洋式建築を得意とする辰野に、白羽の矢が立ったというわけ。駅舎が竣工したのは、第一次世界大戦が始まった大正3年(1914)。国家の威信をかけた華麗で堅牢な赤レンガの建物は、関東大震災にもビクともせず、東京大空襲やゴジラの襲撃にも耐え抜き、現在もその偉容を誇っている。2024年度上期に発行予定の新一万円札には、この東京駅丸の内駅舎が描かれることになっており、いまから楽しみなのだ。

そういえばこの駅舎と同じ年に竣工したのが、佐賀県人におなじみの武雄温泉楼門だ。かたや西洋風赤レンガの豪華な建物なのに比べ、こなたおとぎ話の竜宮城を思わせる東洋風建物。正反対の両者には、だが不思議な繋がりがあるという。実は東京駅のドーム天井には、十二支のうちウシ・トラ・タツ・ヘビ・ヒツジ・サル・イヌ・イノシシの、8つの動物がレリーフされており、残りのネズミ・ウサギ・ウマ・トリの4つが、楼門の天井四隅に彫られているのだとか。実に面白い話だが、これもやはり辰野先生の〝遊び心〟だろうか…。唐津が生んだこの偉人は大正8年(1919)、スペイン風邪に罹患し64歳で亡くなっている。  


Posted by 桜乱坊  at 11:43Comments(0)身辺雑記