2014年08月11日
アメリカ版『ゴジラ』を観て来た

アメリカ版『ゴジラ』が世界中でヒットしているらしい。日本でも7月下旬から公開中なので、根っからのゴジラファンである筆者は、さっそく映画館へと駆け付けた。まあ「駆け付けた」と言っても、佐賀みたいな地方都市では、車でシネコンに行くしか方法はない。だから正確に言えば、「乗り付けた」というわけ。
──米軍の爆発物処理班に勤務するフォードは、逮捕された父・ジョーの身柄を引き取るため日本へと向かう。同国のジャンジラ市(タイかよ?)は、かつて一家が暮らしていた思い出の地だった。ジョーは15年前に起きたジャンジラ原発事故で妻を失い、ひそかに事故の真相を探っていたのだ。父と共に立入禁止地区である原発跡地に入ったフォードは、パトロール隊に見付かり敷地内にある研究施設へ連行されるが、そこで見たものは謎の巨大生物のサナギ。事故の原因はこいつだったのだ。
サナギから羽化したのが、昆虫怪獣のムートー。研究施設をぶち壊して飛び去り、フォードは同所の芹沢博士と共に後を追う。ムートーはハワイに上陸し米軍の攻撃を蹴散らすが、そこへ追って来たのが海底から復活したゴジラだった。核燃料が大好物のムートーと体内に原子炉を持つゴジラ。両者の宿命の対決は決着がつかぬまま、決戦の地はサンフランシスコに。やがて、フィリピンから飛んで来たメスと合流し、夫婦タッグを組んだ2匹のムートーと、一人でも受けて立つぜというゴジラは、シスコ市街地を破壊しつつ大乱闘を繰り広げるのだった…。
日本版『ゴジラ』が初公開された1954年から60年目に、満を持して登場しただけあってこの映画、初代に対するリスペクトが散りばめられている点は、まあ評価出来る。ゴジラのデザインや声、日本版のメインテーマであった放射能や原水爆の取り上げ方、芹沢博士(日本版で平田昭彦が演じた重要キャスト)というネーミングなどにも、日本のファンへの精一杯の気遣いが感じられた。トカゲのような偽ゴジラはもう作りません、というわけか。もっとも、「ジャンジラ市」はないんじゃないの?
最大の見せ場はやはり、CGによるゴジラとムートーのバトル。特に今回のゴジラは圧倒的な巨大さと力感を誇っている。ヒグマを思わせる獰猛な顔に鋭い背中のトゲトゲ、二本足でノッシノッシと歩く重量感は迫力満点で、これじゃあ人間の造った都市などひとたまりもない。対照的に敵役のムートーの方は、エイリアンの焼き直しのような感じで、デザインに斬新さが見られなかったのがちと残念。もっとアッと言わせる怪獣を創造してほしかったな。ただしこれら巨獣の1体2のハンディキャップマッチは、プロレスみたいでなかなか面白かった。
ハッキリ言えばこの映画、巨漢レスラー同士が肉弾相打つアメリカンプロレスなのだ。悪逆非道の夫婦タッグに対し、蘇ったベビーフェイスのマッチョマンが、最後はフラフラになりながらも逆転勝利という、分かり易い勧善懲悪ストーリー。世界中のファンを喜ばせる術を知り尽くした、いかにもハリウッド映画というプロットになっている。なので、物語の端緒である原発事故も、ゴジラとムートーを倒すための核兵器使用も、すべては“アングル(サイドストーリー)”の枠の中だ。そこに深いテーマ性などを求めるのが筋違いで、つまりは典型的なアメリカ製娯楽映画と受け止めるべきなのだろう。
そこでつい比較したくなるのが、1954年の初代日本版『ゴジラ』だ。筆者はこれをDVDで何度も観たし、つい先日はNHKBSで放送されたデジタルリマスター版でも観た。早く言えば、数えきれないくらい観ている。むろん上映中のアメリカ版に比べれば、古色蒼然たるモノクロ映画には違いない。しかし改めて思うのはこの作品、物語の構成やテーマ性、込められたメッセージなど、誰が見ても単なる“子供騙し”ではないということ。つまり万人を感動させる、名作映画としてのクオリティを立派に持っているのだ。むろん円谷英二の特撮や伊福部昭の音楽の、レベルの高さは言うまでもない。
そういえば6月に、英国のエンパイア誌が「外国映画ベスト100」を発表したが、そこには1位『七人の侍』、10位『千と千尋の神隠し』、16位『東京物語』、22位『羅生門』と日本映画が健闘する中で、31位に『ゴジラ』がみごとランクインしていたっけ。さすが分かっているなあ英国人。この映画を偏見なく選んでくれた審査員に、きっと本多猪四郎監督もあの世で感謝していることだろう。もちろん筆者だって感謝したい。繰り返すが、これはただの怪獣映画とは一線を画す、優れた人間ドラマなのだから。
この映画のゴジラは遠く南の海からやって来る。そして東京湾に上陸し、口から怪光線を吐きながら、大都市の東京を破壊し火の海にする。その暴れっぷりには、自衛隊の兵器もまるで歯が立たない。焼け野が原になった市街地の惨状は、ほんの9年前の1945年に米軍によって行われた、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下を思わせる。そんな生々しさもまた、この映画を覆う重苦しい恐怖感に繋がっているはずだ。
なにより、ゴジラの出自には強いメッセージ性が込められている。200万年前に生息し海底洞窟などで眠っていた恐竜が、現代の水爆実験で安住の地を追われたもの──。映画の中で志村喬扮する山根博士は、国会でゴジラについてそう証言する。つまりゴジラは、水爆の被害者でありブーメランでもあるわけだ。ここには1954年に、南太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で、わが国の第五福竜丸が被曝した事件への、抗議も込められているだろう。ゴジラが南の海から現れ、その足跡に放射能が残り、口から白い怪光線を吐くのは、まさに水爆のイメージそのもの。こんなオイラに誰がした?というわけだな。
さらに重要なのが、生息したのが200万年前という設定。恐竜が地球上から絶滅したのは、6500万年前というのが現在の定説だが、いくら旧い映画だからといってデタラメ過ぎると思うのは大間違い。ここには当時の有名SF作家だった原作者、香山滋のあるメッセージが込められているのだ。つまり200万年前というのは、人類の祖先・アウストラロピテクスが生存していた時代。作家はそこにゴジラ=人類という、強烈な皮肉をカマしたというわけだ。これは原水爆により自分自身を滅ぼそうとする、愚かな人類への警告ともとれる。
そして、ゴジラを倒すオキシジェン・デストロイヤーもまた、人類が生み出したもう一つの最終兵器だった。原水爆が人間の科学から生まれた異端児なら、オキシジェン・デストロイヤーも同じ異端児。映画は、東京を破壊し尽くし東京湾深く潜んだゴジラを、この最終兵器で葬るところで終っている。何たってオキシジェン・デストロイヤーは、水中のあらゆる物質を溶かしてしまうのだ。胸に迫るのは、この最終兵器の発明者である芹沢博士が、自ら海中に潜りゴジラともども我が身を滅ぼしてしまうシーン。ここには、人類は原水爆と同じ過ちを再び繰り返してはならないという、強いメッセージが込められている。
そういう意味で、この映画の真の主人公は芹沢博士だとも言えよう。なのでアメリカ版『ゴジラ』がその名前を、主演の一人の科学者(渡辺謙)に用いた点は評価出来る。ただし、ゴジラが勝者で終ったアメリカ版に比べると、日本版には勝者がいない。ゴジラも滅んだが、人類もまた大きな痛手を受けたのだ。ここが深いんだよなあ。なので、ゴジラをアメプロの王者として描いたアメリカ版と、人間を写す哀しい鏡として描いた日本版は、観終わった後の印象が180度違う。このスッキリ感と喪失感の違いが、色々なことを考えさせてくれるので、筆者はますます『ゴジラ』が好きになるというわけ。