2014年03月29日
ネギの話は根が深い

佐賀人の食卓で欠かせないものといえば、薬味に使うトクワカ(常若?)だろうか。これは緑色の細いネギで香りがよく、細かく刻んだものを味噌汁やうどんのつゆなどに入れると、美味さがたちまち倍増する。しかも料理の見た目が美しい。また熱いもの冷たいものどちらにも合うので、薬味としてとても重宝だ。
似たようなネギにワケギ(分葱)というのがある。二つは実は同じものだという人がいれば、いや別の種類だという人もいる。農業にまるで疎い筆者には、この違いがどうもよく分からない。ただ、見た目はソックリだし味もまたソックリなので、どうでも良いような気もするんだけど。佐賀の野菜売場などではたまにこの球根を売っているが、トクワカとワケギのそれはどう見ても瓜二つだ。プランターに植えても、同じような芽が出て来る。
試しにネットで調べてみると、ワケギの別名の一つがトクワカと書いてあるので、やっぱり両者は同じものらしい。佐賀辺りではトクワカの名で通っているが、これはサツマアゲをこちらでテンプラと呼ぶのと、まあ似たようなものなのだろう。ちなみにこのワケギはネギとタマネギの雑種だと言い、純粋のネギとは一線を画すもののようだ。筆者が子供の頃はこれをそのまま茹でて、グルグル巻いたぬたがよく食卓に出ていたが、一度食べてみたのは良いけれど、飲み込みそこなって死ぬ思いをした記憶がある。
ワケギとよく似たものに万能ネギやアサツキという、やはり細くて緑色のネギがある。ここまで来るともう何がなんだか見分けがつかないが、実際にはそれぞれまた違う種のものらしい。案外、ネギも根が深いのだ(やっぱりね!)。例えば万能ネギは実は商標登録された商品名で、正しくは「博多万能ねぎ」といい、福岡県朝倉市のJA筑前あさくらで生産された青ネギのみをそう呼ぶのだとか。いやあ、ブランド品とは知らなかったね。純粋のネギなので、これはどうやらタネから育てるようだ。
じゃあアサツキはどうかと言えば、これまたネギとはちょっと違い、球根から育てるエゾネギの一変種だとか。葉が細くて辛みの強いのが特徴で、もともとは野草なのだという。そういえば原っぱや川の土手などに、よく似た植物が群生していたりするが、試しに採って食べるのはちと危険だからやめとこう。アサツキの名は、ネギより緑色が浅いことから付けられたようだ。ワケギや万能ネギなどよりさらに細いので、細かく刻んで和洋のスープなどに乗せると、香り高く上品な感じになるんだよね。
さて筆者は大阪のきつねうどんが大好きだが、これに乗っている青ネギとなるとまた様相が違って来る。九州のうどんのそれに比べると、ずいぶんと太いのだ。この青ネギは葉ネギとも呼ばれ、シャキシャキと噛み応えのある食感が特長だ。代表的な品種に「九条太ネギ」というのがあり、煮ると柔らかく甘みが出るので、鍋物の具材などにもよく使われる。太いのでボリュームも満点、まさにネギそのものを味わう感じだ。ちなみに「九条細ネギ」という品種もあり、これの若採りしたものが「博多万能ねぎ」になるらしい。
以前、大阪で食べたお好み焼きには、この太い青ネギの刻んだものが山のように乗せてあったが、あれは本当に美味だったなあ。小麦粉と共に鉄板の油でほど好く焼かれた青ネギは、香気といいしんなりした柔らかさといい、もうそれだけで立派なメインイベンターになる。そこにイカやエビなどの海鮮類が混じれば、さらに言うことなし。薬味としてもいいけど、煮たり焼いたり炒めたりと万能ぶりを発揮する青ネギには、思わず筆者も感謝したくなるのだ。
ところが、青いネギの勢力も西日本まで。これが関東に行くともう圧倒的に白いネギの天下なのだから、世の中そう単純じゃあない。これはたぶん西日本の人が東京などに出て味わう、カルチャーショックの一つじゃなかろうか。思えばそのむかし、筆者が佐賀から初めて上京したときもそうだった。とにかく町の蕎麦屋だろうが定食屋だろうが、どこをさがしても入った店に薬味の青いネギは見当たらず、出て来るのは白くて太くて少し硬い輪切りのネギ。いったいこれは何だ?と初めの頃は思ったね。
白いのも道理で、これは「根深ねぎ」といって栽培するネギに少しずつ土を掛け、土中で日の当たらない部分を長くして育てたものなのだ。つまり根が深いネギ。こうなると当然、日が当たる部分は健康的な緑色になり、日が当たらない部分は白くヤワに育つ。ネギも人間も同じなんだな。で、関東ではこの緑の部分を切って捨て、白い部分だけを食用として使うのだから、まあ西日本の人間にすれば「オーマイガッ」と叫びたくもなるってわけ。まさに常識の逆転だ。
しかし、慣れるとこの白いネギがまたイケるのだ。薬味として使う場合は細い千切りにして、熱い汁などに乗せれば香りも歯触りもバッチリだし、少し長めに輪切りしたものは煮ても焼いてもたいそう美味い。特長は白く長い筒の中に、甘くジューシーな芯が詰まっていること。なので関東の味の濃い汁に入れると極上の具となり、串に刺してネギ焼きにすれば最高の酒のつまみになる。ちなみに鴨南蛮やカレー南蛮などの「南蛮」とは、中の具として入っている白ネギのことを言い、別に南蛮人が発明したからではない。
そういえば、筆者がかつて何度か行った浅草の「駒形どぜう」では、名物の泥鰌の丸鍋に細かく輪切りにした白ネギを、山のように乗せて食べたものだ。丸鍋は泥鰌をそのままの形で煮込むため、見た目がちょっとという人もいる。そこを白ネギの山で隠し、しんなりと煮えたところを泥鰌と一緒に食べれば、味も香りも名コンビというわけだ。泥鰌が無くなった後、ネギだけを継ぎ足して食べるのもまた乙なものだが、あれはやっぱり緑ではなく白ネギというところが、江戸風にさっぱりして良いのだろう。
もっともこうした東西のネギ文化の違いも、最近では流通の発達により、徐々に相互の融合が進んでいるようだ。東京のスーパーでは今や、万能ネギはふつうに手に入るようになったし、所によっては太い青ネギも置いてあるようだ。佐賀でも焼き鳥屋に行けば、焼いた白ネギがちゃんと食べられる。故郷を離れた人には便利な世の中になりつつあるが、しかしあまりボーダーレスになり過ぎても面白くはないだろう。考えてみればネギの香りの中には、子供の頃からの故郷の記憶がインプットされているのかも知れないなあ。
2014年03月07日
回想のビル・ロビンソン

さらば“人間風車”──。3月4日のネット記事に、かつて日・欧・米で一世を風靡したプロレスラー、あのビル・ロビンソンの訃報が掲載されていて驚いた。享年は75歳。米国アーカンソー州で死去とあるが、日本での生活期間も長かっただけに、むこうでの晩年が幸せだったのかどうだったのか、ちょっと気になる。肉体を酷使するプロレスラーは早死にの人が多い。ロビンソンの場合は早死にではないが、その華やかなレスラー時代を知る筆者としては、もう少し長生きして欲しかった気もする。
思えば、ビル・ロビンソンが日本のリングに颯爽と持ち込んだのは、まさしく新しいプロレスだったなあ。英国から初来日したのは1968年で、若き“ヨーロッパの帝王”として国際プロレスに登場したときだ。とにかく、そのときの衝撃はハンパじゃなかった。テレビで見る体つきは中肉中背だったが、次から次へと流れるような技の数々は華麗そのもの。しかもスピードとキレはこれまで見たどのレスラーより素晴らしく、おまけに初めて見るような技のオンパレードだ。なによりこの男、気障っぽいほどハンサムで格好良かったもんね。
初戦の相手は木村政雄(後のラッシャー木村)という若手レスラー。ろくに技も知らない新人の木村は、ロビンソンにまるでついて行けずやられ放題。で、ロビンソンが最後の決め技に魅せてくれたのが、後に彼自身の代名詞ともなった、“人間風車”ことダブルアーム・スープレックスだった。いやこの技には正直、度肝を抜かれたのを覚えている。これはリバース・フルネルソン(逆羽交い締め)に相手の腕を固めると、そのままブリッジしながら大きく後方に投げるという荒技で、まさに本邦初公開。こんな技が世の中にあったのか、というほど筆者には衝撃的だった。
3カウントを取られた木村はリングに横たわり、ロビンソンは横で涼しい顔で手を挙げる。まさしくこれはプロレスの「革命」だったね。なにしろ、くすぐったいほど正統派で格好良い外人レスラーが、技だけで日本人レスラーを圧倒したのだ。むろん反則などはいっさい無し。こんなプロレスもあるんだなと、筆者は目からいくつも鱗が落ちる思いだった。なぜならそれまでのプロレスは、極悪非道の反則を繰り返す外人レスラーを、耐えに耐えた泥臭い日本人レスラーが、最後に逆転して勝つというパターンで成り立っていたからだ。筆者はたちまち新しいプロレスの旗手、ビル・ロビンソンのファンになってしまった。
当時、日本プロレスのコーチとして来日していたのがカール・ゴッチだったが、彼はロビンソンこそ「実力世界一」と高く評価していたものだ。それもそのはずで、二人は「蛇の穴」と呼ばれた英国のビリー・ライレージムで、共にランカシャーレスリングを学んだ先輩と後輩。鍛え上げた本場のストロングスタイルは、後の日本のプロレス界にも大きな影響を与えて行く。1971年には国際プロレスのマットでこの二人の対決が実現したが、思えばあの頃が日本におけるヨーロッパプロレスの最盛期だったのかも知れないな。ちなみに「蛇の穴」は、アニメ『タイガーマスク』に出て来る「虎の穴」のモデルとなった。
国際プロレスのエースとなったロビンソンは以後、日本を舞台に数々の名勝負を演じてくれた。グレート草津やストロング小林といった日本人選手との対決はむろんだが、中でも特に記憶に残るのが外人選手同士の熱闘だ。同じ英国人のアルバート・ウォールやカナダのジョージ・ゴーディエンコ、前述のカール・ゴッチにフランスのモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)等々。日本人対外人、ベビーフェイス(善玉)対ヒール(悪玉)という、それまでの対立軸を超えた強豪外人レスラー同士の技比べは、筆者にプロレスの新しい見方を教えてくれた。外人同士の対決で客を呼ぶというのも、この頃のロビンソンが嚆矢じゃなかったかな。
だが、そんなロビンソンが日本に残した生涯最高の名勝負といえば、やはり1975年に舞台を新日本プロレスに移して行われた、アントニオ猪木との一騎打ちに尽きるだろう。とにかく、手に汗を握る一戦とはこのこと。試合のDVDを何度観直しても、筆者はそこにプロレスの魅力が凝縮されているのを感じるのだ。何といってもロビンソンが「蛇の穴」の出身なら、猪木はその先輩であるゴッチの薫陶を受けたレスラー。いわば二人には、“同門対決”の宿命が待っていたのだ。技と技、力と力の限りを尽くした正統派レスラー同士の攻防は、まさに日本プロレス史の最高峰ともいえる内容だったね。
試合は60分3本勝負。「逆さ押さえ込み」で1本目を先制したロビンソンに猪木が猛攻を仕掛け、残り48秒というところで「卍固め」で追い付くという劇的展開。最後は時間切れでドローという絶妙な結末となったが、逃げるロビンソンを追う猪木という構図には、いま観てもハラハラさせられるばかり。サッカーでいえば終了間際の同点ゴールで、観客にしてみればこれ以上はないドラマだったろう。年齢的にも共に脂が乗り切った時期で、再戦が期待されたものの結局、二人のシングルマッチはこの一度だけに終った。ただしそれがこの試合を、永遠に輝かせることにもなったのだけど…。
レスラーとしてのロビンソンの晩年には、筆者もやや失望を禁じ得なかったなあ。アメリカに渡りアメリカンスタイルを身につけたロビンソンの、日本における最後の舞台は、ジャイアント馬場が社長の全日本プロレスだった。金で引き抜かれたのか、それとも新日本プロレスの過激なスタイルには、もはや対応出来なくなっていたのか。どちらにせよ、レスラーとしてはすでに坂を下り始めていた。ウェイトはややオーバー気味となり、膝の具合も悪そうだった。出っ張った腹を隠すように、アマレススタイルのショルダータイツを着けるようになったのも、この頃からだ。
悲しかったのは、1976年に初めて馬場のタイトルに挑戦した試合で、あっさり2フォールを奪われて敗れたとき。それまで日本では一度も2フォールを奪われたことのなかった男の、まさに神話が崩れた瞬間だったが、筆者はそこに馬場の悪意を感じたものだ。そこまでやるのか、と。なぜなら前年にロビンソンは、猪木と史上最高の試合をして引き分けている。馬場はそのロビンソンを降すことによって、猪木との差を誇示したかったのだろう。だがお陰で彼のファンの心は大きく傷ついた。なにより、この負け試合を呑まされた誇り高きロビンソンの心中は、ずいぶんと複雑だったに違いない。
以後はアマレス出身のジャンボ鶴田との、いくつかの好勝負が記憶に残ってはいるが、はたしてこの団体のスタイルが、自身のポリシーと合っていたのかどうか。とにかく全日本のマットに上がってからのロビンソンには、かつてのスピードや華麗な技の切れが、もうすっかり影を潜めていたように思う。おまけにこの団体はもともとアメリカンスタイルが基本で、オールラウンダーの鶴田以外には、彼の良さを引き出してくれる相手もいなかった。本来なら正統派レスラーのロビンソンが、A・ブッチャーやK・トーア・カマタらのラフファイターと乱闘する姿には、筆者は痛々しさをさえ感じたものだ。
プロレスラー、ビル・ロビンソンの引退は1985年。47歳での幕引きはやや早い気もするが、長いレスラー生活で肉体はすでに限界だったのだろう。その後の活動で有名なのが、会員制ジムのUWFスネークピットジャパンに招かれて来日し、1999年から2008年までヘッドコーチとして指導したこと。その一コマはテレビでも紹介されたことがあった。東京の高円寺暮しを楽しみながら、若い日本人にレスリングの基礎を教える日々は、きっと彼のレスラー人生の中でも、至福の時間だったのではなかろうか。
ともあれ先輩のカール・ゴッチと並んで、この人ほど日本にレスリングの種を蒔いた人はいなかった。やはり根っからの“プロレス職人”だったのだな。ユーラシア大陸の西端の島国で生まれたランカシャーレスリングは、こうして東端の島国・日本で今もしっかり受継がれているというわけ。なので、日本のプロレス界にとってビル・ロビンソンの存在は、永遠に消えない一つの輝きになったのだと思う。