2017年01月14日
俳句が脳を刺激する

近ごろ筆者がめったに観ることのないテレビの中でも、さらに観ることのないのがバラエティだ。似たような顔ぶれの若手芸人がひな壇に並び、くだらないトークをやり取りするだけの安上がり番組など、金をもらっても観る気はしない。まあ大金となれば話は別だが…。しかしそんな大嫌いなバラエティ番組の中でも、一つだけ筆者が毎週楽しみにしている例外がある。それはTBS系列で木曜夜の7時から放送している「プレバト!!」だ。
これはお笑いを始めとする様々な分野の芸能人が、俳句や生け花、書道に料理など、種々の芸ごとに挑戦して優劣を競うというもの。面白いのはこれがただのおふざけではなく、その道の専門家の先生がシビアに作品を吟味し、本人に才能が有るか無いかを査定してランク付けをする、バトル形式になっているところだろう。むろん審査のときは、先生に作者の名前は伏せられている。なのでベテランの名優がとんでもない駄作で最下位になったり、お笑い芸人やアイドルが驚くような秀作でトップになったり、けっこう意外性に富んだ結末でこちらを笑わせてくれるのだ。
中でも筆者が気に入っているのが俳句のコーナーで、これは面白い上に、なるほど!と言葉の勉強になるところが素晴らしい。審査をするのは俳人の夏井いつき先生だが、とにかくこのオバさんの遠慮のない辛口批評が利いている。しかもクソミソにこき下ろした上で、作品を優しく添削してくれて、見違えるほどの名句に変えてしまうのだから、生徒たちも納得だ。ここでは知識や学歴がウリの小賢しい人間より、脳内にイマジネーションを膨らませ、それを5・7・5の17文字にギュッと凝縮させられる、創造力の持主が主役になれる。なので高学歴のインテリも案外、おバカタレントに惨敗したりするってわけだ。
むろん俳句の番組といえばNHKの得意分野だが、あちらはどうも“教養番組”臭さがにおっていて、何だか取っ付きにくい。その点「プレバト!!」は、素人の芸能人が真剣勝負で作品を競うという、バトル形式にしたアイデアが成功している。やっぱり面白いのはハラハラのバトルだよな。しかも作るのは、日本人が誰でも知っている伝統文芸で、なおかつシンプルで奥が深い俳句だ。そこは手垢のついた技巧より、恐れ知らずの発想力が重視される世界。考えてみれば感覚脳の右脳を刺激し、言語脳の左脳をフル回転させ、人をみな詩人にする俳句は、脳の活性化に最適のツールなのかも知れないな。
こう書くとまるで筆者が俳句の達人のようだが、まったくそうではないのが悲しいところだ。恥ずかしながら、筆者が松尾芭蕉の『奥の細道』を読んだのは、実はつい数年前のこと。それまでは、ジジ臭い文学として見向きもしなかったのだが、読んでみると確かに目から鱗の新発見。そこではそれまで知っていた芭蕉の句の数々が、紀行文に描かれた風景の中で新鮮な輝きを放っていた。芭蕉翁は旅の中でいにしえ人と心の対話をしながら、あの数々の名句を生んでいたのだ。つまり、俳句にはその背景に深いストーリーと想像力があることを、この本で筆者も初めて学んだってわけ。
ただしそんなバチ当りの筆者も、ずいぶん前に一度だけ友人たちと三人で、俳句の吟行旅行をしたことがある。行ったのは房総半島の小さな城下町・大多喜。桜と菜の花の季節に、大多喜城の周りを歩きながら句を詠むという企画だったが、もちろんお遊びの“吟行ごっこ”で、本音は昼間から酒を飲みながら桜を観るというもの。いま思い出してもずいぶんだらしのない吟行で、さっぱり句は出来なかったが、酒だけはずいぶん進んだのを覚えている。なにしろ気心の知れた友人同士、ビシッと締める人がいない。やはりこんなときは、厳しい師匠がそばで指導しないとダメなんだろうね。
その日は地元の大屋旅館という古くて雰囲気のある旅館に投宿し、炬燵の中でも句を詠み合ったりしたが、なかなか良いものは出て来ない。そもそも俳句より酒がメインの旅行だから、そう簡単にひらめきが降りて来るはずもない。で一晩明けて翌日の朝飯、これがなかなか良かった。なにしろ大多喜は竹の子の産地として知られた所だ。竹の子ご飯にお吸い物など、おかずにも竹の子が出て来て、筆者らはおおいに満足したというわけ。そこでボケた頭にふと浮かんだのが、「吸い物も 飯も竹の子 古旅籠」なる一句。恥ずかしくなるような駄作だが、今でもあのときの朝飯だけは筆者も思い出すんだよなあ。
しかし、こんな俳句のスゴいところは、国境を越えてどんどん世界に広まっているところ。芭蕉翁もさぞ驚きだろうが、「HAIKU」は今や世界語となり、英語圏を始めとして多くの国で句作が行われているらしい。しかも日本語ではなくその国の言葉で詠まれているようで、EUで初代欧州理事会議長を務めたヘルマン・ファンロンパイ氏などは、オランダ語の句集を出版したことで知られている。いったい外国語でどうやって俳句を詠むのか、日本語での句作さえままならない筆者などは、ちょっと不思議な気がするのだが。
聞けば、アメリカの小学校でも「HAIKU」の授業があるのだとか。そこでは日本のような厳密な形式の俳句ではなく、とりあえずは英語の3行詩でOKということのようだ。これが上級者になると5・7・5の音節に拘ったり、必ず季語を挿入したりと、俳句らしい定型詩になって行くんだろうな。もっとも、自然や日常の中に一瞬の美を発見したり、自分の感動をふと文字で表現したくなったりするのは、日本人も外国人も変わらないはず。感覚を研ぎ澄ませ言葉を磨き上げ、短い3行詩でそれらを纏める楽しさは、きっと誰もが感じる普遍的なものなのだろう。
「プレバト!!」の俳句が面白いのはたぶん、それが一部の粋人やインテリのものではなく、誰にも挑戦出来る言葉と感覚のゲームだということを教えてくれたから。そう、俳句は芭蕉翁のむかしから、年齢や身分を超えて誰もが参加出来るゲームだったのだ。しかも、そこには繊細で深い詩的世界がある。「HAIKU」が世界に受入れられつつあるのは、外国人がそこに未知の天体を発見したからだろうか。