2008年08月25日

蕎麦がうまい!



暑い季節には冷えた麺類がうまい。ソーメンに冷や麦、冷たいうどんなどが食欲をそそるが、中でも筆者の好みは蕎麦。盛りでもざるでもいいが、山盛りの蕎麦を箸でつまみ上げザブリとつゆに浸すとき、このうえない幸せを感じる。

うどん文化圏の九州ではふつう蕎麦屋はあまり見掛けず、蕎麦はうどん屋のメニューの一つになっている。が反対に、東京ではどこに行っても蕎麦屋ばかりで、うどんは蕎麦の脇役的メニューにすぎない。なので筆者が蕎麦の味に初めて目覚めたのは、むかしむかし小城から学業のため移り住んだ東京でのことだった。

とにかく東京の蕎麦は美味い。老舗の名店はもとより、町なかのごく庶民的な店に入っても、どこもふつうに美味い蕎麦を出す。よっぽどひどい店でもない限り、つまり当たり外れがないのだ。この安心感は大きい。だから、外での昼食などで手近に良さそうな店がないときは、たいてい蕎麦屋に入ればまず失敗はない。

東京の蕎麦がうまい理由はいろいろあるだろうが、何より蕎麦粉の産地である信州・長野県が近いのが大きいだろう。じっさい都内を歩けば、「更科(さらしな=信州の蕎麦粉の産地)そば」の暖簾を上げた店がよく目につく。もっとも、それをいえば九州だって名だたる蕎麦粉の産地は多いものなあ。両者に味の差があるかといえば、筆者にはそうは思えない。

これは個人的な意見だが、東京の蕎麦が美味いのはそのつけ汁に秘密があるのだと思う。よく言われるのが関東と関西での水質の違いで、関東の水はミネラル分の多い硬水のため、コンブだしが出にくい。そのハンディを補うため、鰹などの魚系だしをたっぷり使い、味の濃い千葉県産の醤油とみりんで煮込んだ、真っ黒な関東風つけ汁が生まれたというわけ。この甘辛くて鰹風味の利いた濃厚つけ汁が、もう絶妙のハーモニーというか蕎麦の香りと実によく合うのだ。そう、蕎麦には独特の香りがあるんだよね。

逆にコンブだしの利いた九州や関西の上品なつけ汁では、この蕎麦の香りが勝ちすぎてあまり美味くは感じない。九州で生まれ育った人間がたいてい蕎麦よりうどん・ソーメンが好きなわけは、このほんのり甘く半透明なだし汁とうどん・ソーメンとの圧倒的な相性の良さを、よく知っているからだろう。そう、色が真っ白で香りも淡白なうどんやソーメンは、薄色甘口な汁につけてこそ、その美しさや繊細な美味さを十分に発揮するのだ。

だから、東京の蕎麦屋でうどんなどを注文したら、関西以西の人はきっと後悔することになる。あの真っ黒で濃厚甘辛なつけ汁とうどんとでは、まったく相性が合わないのだ。それはまるで色黒な漁師のアニキと、色白で上品なお姫様のカップルのようなもの。さらに間違ってかけうどんなどの汁物を頼んだ日には、もうビックリ仰天の目に遭うことだろう。なにしろ白いはずのうどんが、真っ黒い汁の中で茶色く変身しているんだものなあ。やはり何ごとも相性が大事なのだ。

よって、筆者の結論はこうだ。蕎麦を食べるなら関東風鰹だしの濃厚甘辛なつけ汁で、一気にズルッと飲み込むにかぎる。うどんやソーメンの場合は、薄色甘口な関西風の汁でゆっくり味わいながらすするのが良い。まあこれは、あくまでも個人的嗜好なのだが…。

ちなみに筆者は以前、佐賀市の三瀬村にある「そば街道」に行ったことがある。あのときは国道263号をそれて、少し枝道の奥にある一軒の蕎麦屋に入ったが、そこで食べたざる蕎麦はなかなか美味かったなあ。佐賀にも蕎麦の名所ができたのは嬉しいこと。暑い季節のうちに、またもう一度行ってみたいものだ。  


Posted by 桜乱坊  at 16:06Comments(2)食べ物など

2008年08月13日

高校スポーツの夏



華々しいオリンピックの陰に隠れて、そういえば甲子園の高校野球もやってたんだなあ。今年は北京からの大報道のせいですっかり日陰の存在だが、常識的に考えればこれはまあ仕方がないだろう。甲子園の高校野球はもともと高校生の部活の大会であり、新聞やテレビが朝から晩まで大騒ぎする方が異常なのだ。

今年、佐賀代表として出場した佐賀商業は、一回戦で岡山の倉敷商業に惜しくも敗退。佐賀県人としては残念だが、なに勝負は時の運。勝つときもあれば負けるときもある。佐賀商部員たちは堂々と胸を張って、郷土の土を踏めば良いのだ。

一方、それより少し早く開始された高校総体(インターハイ)では、サッカーの佐賀東高校が全国でベスト4進出という快挙を成し遂げている。これはすごい! 同校は準決勝で惜しくも千葉の流通経大柏に0-2で敗れ、決勝進出はならなかったものの、佐賀の代表としては昨年の佐賀北高校の甲子園での優勝に次ぐ、素晴らしい活躍だといえるんじゃないだろうか。

しかし筆者がちょっと不満に思うのは、同じ時期に開かれる高校生の部活の大会でありながら、甲子園の野球大会と高校総体とでは、マスコミの報道の量がまったく違うこと。前者はNHKが全試合を全国中継し、新聞のスポーツ面ではカラー写真入りでデカデカと取り扱う。かたや高校総体の方は、その存在すら知られぬほど扱いが小さい。これはまったく理不尽としかいいようがない。昨年の佐賀北の優勝に歓喜した佐賀の人々は、今年の佐賀東のベスト4進出をどれほど知っているのだろうか。

まあすべては、高校スポーツの中で野球だけを特別扱いしてきた、この国の歴史に原因があるのだろう。何といっても高校総体を主催するのが、野球以外の全ての高校スポーツを統括する高体連なのに対し、甲子園の野球大会を主催するのは高野連と朝日新聞社。あらゆる競技の中で野球だけが高体連に含まれず、高野連という独自の組織を持っているのだ。これはちょっと変じゃないの?

筆者の考えでは、野球もやっぱり高体連に加入し、高校総体の中で優勝を争う試合を行えば良いのだ。同じ高校生のスポーツ大会なのに、いまのように野球の選手だけがチヤホヤと特別扱いされるのは、本人たちや他の種目の選手たちにとっても、あまり良いことではないだろう。努力の成果は平等に評価されるべきじゃないのかな。新聞社ももうそろそろ、高校野球人気を利用して販売部数を稼ごうなどというセコイ考えを捨て、全ての高校スポーツを賛助する立場に立った方が、世の尊敬を集めやすいんじゃないだろうか。

聞くところではいまの高校野球も、様々な問題を抱えているようだ。中でもファンの興をそぐのは、勝つために地元以外からの移入選手で強化しようとする学校の存在。東北や四国・山陰など野球が元々あまり強くない地域の私立高校の中には、大阪など野球のさかんな関西地区から中学生を集め、強豪校へと変身したところもあるようだ。何でも東北の某高校チームで行き交う標準語は、関西弁らしいとの噂もあるし…。

むろん誇り高い葉隠精神の横溢した佐賀では、こうした関西からの助っ人選手などはいないはずだ。だいいちそんな高校が県の代表になっても、佐賀県人は決して応援しないだろう。そう言う意味でも昨年の佐賀北高は、全員が地元出身者というところが素晴らしかった。サガン鳥栖サポーターの横断幕ではないが、佐賀の高校スポーツはどこまでも「正直田舎者」で行ってほしい。そしてマスコミは、すべての種目を平等に扱ってほしい。  


Posted by 桜乱坊  at 12:01Comments(0)スポーツ

2008年08月09日

懐かしい闇



近頃は、夜でもずいぶん周りが明るくなった。だいいち小城のような田舎の町でも、夜空には星があまり見えないのだ。これは地上の建物の照明や車のライトなどの反射で夜空が明るくなり、そのため見えにくくなっているのだろう。「光害」という奴だ。季節にもよるのだろうが、筆者が子供の時分には空一面に星が輝き、その圧倒的な数の多さに思わず恐怖感を覚えたほどだったのに。時代はずいぶん変わったなあ。

以前、祇園川の源氏ボタルを観に出かけたことがあるが、あのときも川のすぐそばを通る車のライトに辟易したことを思い出す。とにかく、ひっきりなしに目映いライトがやって来るので、すっかり興醒め。ホタルもあれでは求愛どころではないだろう。後で人に聞いたらもっと上流まで行かなければと言われたが、岩蔵の先あたりまで歩かないとダメなのかな、あれは?

とにかく現代は、闇というものが少なくなった。誰かに鼻をつままれても分からないほどの“真の闇”は、少なくとも筆者の周りからは消えたようだ。深夜に外に出てもあたりは街灯や看板、車のライト等で十分に明るいし、室内で照明を消してもパソコンやテレビなどのデジタル機器のLEDがいくつも点いていて、方角だけはちゃんと分かる。むろん小城でも佐賀でも、行く所に行けばそうではないのだろうが。

そういえば若い頃に一度だけ、筆者も屋外で“真の闇”の恐怖を経験したことがある。千葉県の農村にある友人の実家に遊びに行ったときのことだが、あのときバスが着いたのがすでに夜。バス停には明りが点いていたものの、友人の後を歩いているうち辺りはたちまち真っ暗に。おお、これは──?

どうやら木々の茂った道を歩いていたらしいのだが、慣れている彼はスタスタと先を歩いて行く。こちらは一寸先も見えない闇の中を、その声をたよりに追って行くしかない。すぐ近くには小川らしい水の流れる音も聞こえ、落ちたらと思うともう冷や汗たらたら。ほどなく友人の家に無事着いたが、あのときは本当に恐怖だったなあ。とにかく何も見えない世界は、人を不安にさせる。

人工の闇といえば、思い出すのが長野県は善光寺の床下にある「戒壇巡り」。これは外光の入らぬ迷路のような地下回廊で、来観者は念仏を唱えながら進み、中央部にある「極楽の錠前」に触れることで、ご利益があるというもの。同寺の名所の一つだ。まあ細い通路なので、片手で壁伝いに歩けば迷う心配はないのだが、やはりあの真っ暗闇は誰でも一瞬ひどく不安になるはず。独身の男は彼女の手を引いてあげれば、きっと頼りにされるはずだ。

筆者の味わった変わった体験では、十数年前に山梨県のある金山のミュージアムを設計した際、リサーチで戦国時代に甲州の金掘り衆が掘った、山奥の金の採掘坑に入ったことを思い出す。そこは武田氏の隠し金山の一つで、佐渡金山など江戸期の坑道とは違い、人間一人がしゃがんでやっと通れるほどの狭い穴。地元の案内者を含め計4人で入ったのだが、試しに携帯したライトを消すとあたりは全くの闇。まるで地獄の底にいるような、圧迫された恐怖感を味わった。往時は金掘り衆が一人でコツコツ掘ったのだろうが、つくづくこんな所で死ぬのはいやだなあと思ったものだ。

まあ、押入れに入って戸を閉めれば、現代でも闇は容易に手に入る。だが、それではあまりに面白くない。現代文明に慣れすぎたわれわれだが、やはりときには自然界にぽっかりと存在する闇の深さに、あらためて浸ってみるのも良いんじゃないだろうか。それが自然への畏敬の念にも繋がるだろうし、ヒーリング効果だって期待できるはずだし。案外、これからは「暗闇浴」なんてのが流行ったりして…。  


Posted by 桜乱坊  at 12:16Comments(0)身辺雑記