2008年08月09日

懐かしい闇



近頃は、夜でもずいぶん周りが明るくなった。だいいち小城のような田舎の町でも、夜空には星があまり見えないのだ。これは地上の建物の照明や車のライトなどの反射で夜空が明るくなり、そのため見えにくくなっているのだろう。「光害」という奴だ。季節にもよるのだろうが、筆者が子供の時分には空一面に星が輝き、その圧倒的な数の多さに思わず恐怖感を覚えたほどだったのに。時代はずいぶん変わったなあ。

以前、祇園川の源氏ボタルを観に出かけたことがあるが、あのときも川のすぐそばを通る車のライトに辟易したことを思い出す。とにかく、ひっきりなしに目映いライトがやって来るので、すっかり興醒め。ホタルもあれでは求愛どころではないだろう。後で人に聞いたらもっと上流まで行かなければと言われたが、岩蔵の先あたりまで歩かないとダメなのかな、あれは?

とにかく現代は、闇というものが少なくなった。誰かに鼻をつままれても分からないほどの“真の闇”は、少なくとも筆者の周りからは消えたようだ。深夜に外に出てもあたりは街灯や看板、車のライト等で十分に明るいし、室内で照明を消してもパソコンやテレビなどのデジタル機器のLEDがいくつも点いていて、方角だけはちゃんと分かる。むろん小城でも佐賀でも、行く所に行けばそうではないのだろうが。

そういえば若い頃に一度だけ、筆者も屋外で“真の闇”の恐怖を経験したことがある。千葉県の農村にある友人の実家に遊びに行ったときのことだが、あのときバスが着いたのがすでに夜。バス停には明りが点いていたものの、友人の後を歩いているうち辺りはたちまち真っ暗に。おお、これは──?

どうやら木々の茂った道を歩いていたらしいのだが、慣れている彼はスタスタと先を歩いて行く。こちらは一寸先も見えない闇の中を、その声をたよりに追って行くしかない。すぐ近くには小川らしい水の流れる音も聞こえ、落ちたらと思うともう冷や汗たらたら。ほどなく友人の家に無事着いたが、あのときは本当に恐怖だったなあ。とにかく何も見えない世界は、人を不安にさせる。

人工の闇といえば、思い出すのが長野県は善光寺の床下にある「戒壇巡り」。これは外光の入らぬ迷路のような地下回廊で、来観者は念仏を唱えながら進み、中央部にある「極楽の錠前」に触れることで、ご利益があるというもの。同寺の名所の一つだ。まあ細い通路なので、片手で壁伝いに歩けば迷う心配はないのだが、やはりあの真っ暗闇は誰でも一瞬ひどく不安になるはず。独身の男は彼女の手を引いてあげれば、きっと頼りにされるはずだ。

筆者の味わった変わった体験では、十数年前に山梨県のある金山のミュージアムを設計した際、リサーチで戦国時代に甲州の金掘り衆が掘った、山奥の金の採掘坑に入ったことを思い出す。そこは武田氏の隠し金山の一つで、佐渡金山など江戸期の坑道とは違い、人間一人がしゃがんでやっと通れるほどの狭い穴。地元の案内者を含め計4人で入ったのだが、試しに携帯したライトを消すとあたりは全くの闇。まるで地獄の底にいるような、圧迫された恐怖感を味わった。往時は金掘り衆が一人でコツコツ掘ったのだろうが、つくづくこんな所で死ぬのはいやだなあと思ったものだ。

まあ、押入れに入って戸を閉めれば、現代でも闇は容易に手に入る。だが、それではあまりに面白くない。現代文明に慣れすぎたわれわれだが、やはりときには自然界にぽっかりと存在する闇の深さに、あらためて浸ってみるのも良いんじゃないだろうか。それが自然への畏敬の念にも繋がるだろうし、ヒーリング効果だって期待できるはずだし。案外、これからは「暗闇浴」なんてのが流行ったりして…。  


Posted by 桜乱坊  at 12:16Comments(0)身辺雑記