2009年08月30日

格好悪い唐津線の車両

JR唐津線に乗るたびに思うのは、運賃がいやに高いこと。筆者がよく利用するのは、佐賀駅から鍋島駅と久保田駅をはさんだ、小城駅までの3区間。時間にすればわずか15分ほどだが、これだけで切符代は270円も取られる。自販機にコインを投入するたびに、高いなあといつも思うのだ。

単純に比較は出来ないが、これがどれだけ高いかというと、例えば東京の新宿駅から小田急線に乗って、都下稲城市にある「読売ランド」に遊びに行ったとする。読売ランドの敷地内には、読売ジャイアンツや東京ヴェルディの練習場があるのだが、これはまあどうでも良い。新宿駅から「読売ランド前」駅までの切符を買うとすると、これが佐賀駅−小城駅間と同じ270円になる。だが驚くなかれ、新宿からスタートして読売ランド前は、なんと20番目の駅なのだ。

ちなみに距離で比較すると、佐賀駅−小城駅間が11.5kmなのに対し、新宿駅−読売ランド前駅は19.2km.。小田急線は唐津線に比べ距離で約2倍、区間の駅の数では17も多いのに、運賃は同じ270円なのだから、いかに唐津線が高いかが分かる。おまけにスマートで小ぎれいな小田急線の電車に比べると、唐津線のディーゼルカーのみすぼらしさには涙が出るよ。

とはいえ、神奈川県の小田原方面から新宿副都心へ大量の人間を運ぶ小田急線と、佐賀県の過疎地をのんびりと昼寝しながら走る唐津線では、所詮くらべることに無理がある。それは筆者も分かっている。両者の乗降客数には天と地ほどの開きがあり、自然、数の少ない唐津線では客単価が高くなるのは仕方がないことなのだ。仕方がないけど同じ民営の鉄道会社として、サービスにこんな格差があっていいのかなあ、などと筆者はつい思ってしまう。



そこでせめて提案したいのは、唐津線の車両のデザインをもう少しなんとかすること。現在、唐津線を走るディーゼルカーの客車は、白っぽい車体の横に濃いブルーのラインが入った「キハ47」と、鮮やかな黄色い車体の「キハ125」の2種類が走っている。前者の方がややボディが長く、乗降用のドアが両開きなのに対し、後者はこぢんまりとした車体で乗降ドアも片開きだ。つまり二つは、かなり違うタイプの車両ということになる。

唐津線はたいてい2両編成の場合が多いが、ふつう見掛けるのは「キハ47+キハ47」か「キハ125+キハ47」という組合せだ。脱色したような不気味な白さが好きになれないが、まあ「キハ47」どうしの組合せは我慢しよう。筆者がどうにもひどいと思うのは、後者の「キハ125+キハ47」の連結だ。

とにかく、色も違えば形も違う二つの車両が並んだ様は、チグハグ過ぎてどうにも格好が悪過ぎる。これではまるで黄色い背広の下に、白い袴を穿いているようなものではないか。というより、こんなへんてこな組合せの車両を走らせて、何とも思わないセンスの無さが筆者には信じられない。格好なんかどうでもいいよ、と自分で白状しているようなものなのだ。JR九州って、客商売をやってる会社じゃなかったっけ?

何といっても唐津線の良さは、沿線の景色が美しいこと。佐賀から唐津を結ぶレールの両側には、緑豊かな田園風景が広がり、また変化に富んだ山々や清流もある。映画『東京日和』のワンシーンを飾った、厳木駅のホームも昔のままだ。そこには日本の農村の原風景を思わせる、懐かしい景色があふれている。その中を走るローカル鉄道・唐津線がこれでは、いくらなんでも恥ずかし過ぎる気がするなあ。

団塊世代が退職の時代を迎え、こうした“懐かしい風景”を求める旅行者は、これからきっと増えるはず。遠方から来る年配者のお客は、やはり車ではなくて鉄道なのだ。そうした人々へのもてなしの意味も込めて、いまこそ唐津線はイメージチェンジをすべき時だと、筆者は思う。美しい沿線の風景にしっくりと似合う、“佐賀らしい”デザインにね。

とりあえずはチグハグな「キハ125+キハ47」の組合せはやめて、「キハ125」どうしか「キハ47」どうしに決めてはどうだろう。あとは車体のカラーをオリジナルなものに統一し、唐津線の確立したイメージをアピールする。ボディに渋いイラストなどを描いてもいいんじゃないのかな。それだけでずいぶんスッキリし、路線の印象も変わるはずだ。とにかく、現状の高い運賃の上に格好悪い車両では、踏んだりけったりというもの。沿線の風景が泣くというものだ。  


Posted by 桜乱坊  at 18:16Comments(6)身辺雑記

2009年08月23日

蓮は神秘の花



先日、東京に住む友人の画家から残暑見舞いのハガキが届いた。ハガキの裏面には自筆の蓮の花の絵が描いてあり、「府中の古代蓮です」という説明がついていた。ピンク色の大きな花弁がポッカリと開き、中央には小さなハチノスのような、薄緑色のめしべも顔をのぞかせている。蓮とは、なんとも優雅な形の花なのだ。

この府中市の古代蓮の別名は「大賀蓮」。そのむかし昭和26年、千葉県にある東京大学グランドの土中から発見された、約二千年前の蓮の種子を発芽させ立派に開花させた、植物学者・大賀一郎博士の名前から来ている。大賀博士の蓮はその後、各地に移植されたようで、府中市の古代蓮もどうやらその子孫らしいが、なんとまあ植物の生命力とは凄いものだと感心させられる。

ところで、筆者はときどきJRの唐津線に乗る。佐賀から始発のディーゼルカーは、久保田駅を過ぎると長崎本線と分岐して北に進路を変える。その久保田駅を出た列車が次の小城駅に至る間の車窓には、両側に佐賀平野の青い田んぼが一面に広がっているが、ところどころに水をたたえたクリークなども点在する。そしてこの季節のそんなクリークは、たいてい大きな蓮の葉で覆われているんだなあ。いかにも佐賀らしいといえば佐賀らしい、のどかな風景じゃないか。

筆者がハッとするのは、その青々とした蓮の葉の中に小さなピンク色をした、いくつかの花を発見するときだ。走り行く列車の窓から見える一瞬の花の色は、それが遠くにあるせいかとても美しく見える。できれば近くに寄ってじっくり見物したいし、写真にも撮りたいと思うのだが、走る列車からではそうも行かないのが残念なのだ。

蓮の花が美しいのは、その形や色の優雅さもさることながら、やはり沼や池といったとても清冽とは言いがたい泥水の中から、まるで奇跡のように神々しい花弁を出現させるからだろう。掃き溜めに降りた鶴とでもいうのか、とにかくそのミスマッチはとても神秘的だ。古代からヒンドゥー教や仏教で聖なる花と看做されるのも、何となく分かるような気がする。

さらに大賀蓮でも分かるように、種子には人知の及ばない不思議な生命力も宿っている。何といっても二千年だもの。弥生人が見ていた花の種なのだ。

そう考えると、蓮とはなんとも神秘さと優雅さを兼ね備えた、魅力的な植物なのに気付かされる。筆者の子供の頃には、蓮の葉にたまった露を集めて墨をすると、習字がうまくなるなどと言われたものだ。おまけに根っこのレンコンは、天ぷらにして食べると抜群にうまいし…。そうだ、そうなのだ。やっぱり筆者は一度、唐津線の車窓から見えるあの蓮の花を、じっくり観に行かねばならないのかも知れないなあ。  


Posted by 桜乱坊  at 19:23Comments(0)身辺雑記

2009年08月19日

イチローの不思議



筆者は、メジャーリーグ(MLB)の野球にはまるで興味がない。だが、シアトル・マリナーズのイチローの活躍はよく知っている。なにしろNHKが通常のニュース番組のたびに、イチロー選手が今日の試合で何本ヒットを打ちましたとか、微に入り細を穿って報道するものだから、つい耳に入ってしまうのだ。

公共放送であるNHKが、そこまでMLBに肩入れする必要もないと思うのだが、たぶん莫大な放映権料を支払っているため、彼らとしては何としても放映する試合の視聴率を上げたいのだろう。なにしろそのお金は、みなさまから徴収した受信料から出ているのだから。これが低視聴率だったら、言い訳が立たないものなあ。

それをさておいても、イチローのヒット量産力は凄い。なにしろ左打者で無類の俊足に加え、天才的なバットコントロールの持主ときている。来たボールを軽く左に流し打ち、相手チームの大男の野手がモタモタと捕球に手間取っている隙に、一気に一塁ベースを駆け抜ける。それだけで、まるで弁慶を翻弄する牛若丸みたいに、軽々とヒットを量産して行く。むろんバットをボールの芯に当て、右中間に飛ばすパンチ力もあわせ持っている。まさに緩急自在の天才打者なのだ。

だが、そんなイチローの所属するシアトル・マリナーズの戦績はといえば、これがどうにもパッとしない。チームが所属するアメリカンリーグ西地区は、わずか4チームで構成されるのだが、マリナーズの成績は2004年から2006年まで3年連続で最下位だ。2007年に頑張って2位になったのも束の間、2008年のシーズンはまたしても定位置の最下位に逆戻り。しかも、2004年と2008年のチームの勝率が3割台と来ては、これはちょっとヒド過ぎだろう。

つまり不世出の天才打者イチローは、もう何年も優勝とは無縁のどん尻チームで、コツコツとヒットばかりを量産していることになる。これはまるで、かつて優勝とは無縁のロッテ・オリオンズにいた落合博満が、狭い川崎球場を本拠地にしてヒットやホームランを量産していた構図と、ちょっと被るんじゃないのかな。観ていたのは無人のスタンドだけだった、なんてね…。ただし落合はその後、中日ドラゴンズや読売ジャイアンツに移籍し、優勝に貢献する働きをしているので、まだ評価出来るのだが。

筆者が不思議に思うのは、イチローは果たしてこれで満足なのだろうか?ということ。やはりプロの野球選手として一番の目標は、チームを勝利させ自分がそれに貢献することだろう。優勝のかかった舞台で最高の活躍をしてこそ、選手としての価値が認められ、真の栄誉が与えられるはず。つまり、優勝とは無縁の試合で打った200本のヒットより、勝つしかないというプレッシャーの掛かった試合で打つ50本のヒットの方が、はるかに価値があると筆者なんかは思うのだ。

イチローはなぜ移籍をしないのだろう──? もちろん高額の年俸でチームと契約しているため、移籍すればとんでもない違約金が派生するのは分かる。だが彼ほどの選手なら、それを払ってでも獲得したいというビッグな球団が現れても、少しも不思議ではないはず。マリナーズにだって、もう十分以上に義理は果たしたはずじゃないか。現にサッカーの世界では、トップクラスの選手たちはより大きな報酬と栄光を求めて、移籍を繰り返している。

例えば韓国代表のパク・チソンはかつて、京都パープルサンガからオランダのPSVへ移籍したが、彼がそこで満足していたら、現在のマンチェスター・ユナイテッドでの活躍はなかっただろう。また、同じマンチェスター・ユナイテッドのC・ロナウドやACミランのカカなどは、安定した古巣での地位や報酬を捨て、さらに大きな成功を求めて、今季からスペインのレアル・マドリードへ移籍している。これなどはビッグクラブからビッグクラブへの移籍だが、戦いのスタイルや種々の環境の違いなどリスクも含んでいる。それでも行くんだよなあ。

筆者にはどうもイチローが、現状で満足しているように見えてしょうがない。今のままなら、優勝のプレッシャーのない試合ばかりで、ヒットを打つのは容易だし、高額年俸は保証されている。おまけに日本では「世界のイチロー」と喧伝され、人気は抜群でCMにも引っ張りだこ。もうすでに一生、遊んで暮らせるほどの報酬は稼いだはずだ。だが、それでいいのかな?と筆者は思う。

彼に望む道は、ただ一つ。まだ実力が低下しないうちに、MLBのトップクラスの球団に移籍して、優勝争いに貢献すること──これしかない。イチローの実力ならそれが十分可能だと筆者は思うし、だいいち彼が安定した地位や報酬よりもっと大事なものを手に入れるチャンスは、もうそれほど長くは残されていないはずなのだ。あの落合にできたチャレンジが、イチローに出来ないはずがないと思うんだけどねえ。  


Posted by 桜乱坊  at 16:27Comments(4)スポーツ

2009年08月11日

プロレスは死なず



東京ドームでアントニオ猪木の引退試合を観たのは、1998年の4月4日のことだった。あれからすでに10年以上が経つが、そんな月日の長さに比例するように、筆者のプロレスに対する興味も薄れてしまったようだ。かつてあれほど好きだったプロレスのテレビ中継も、このごろさっぱり観なくなってしまったもの。というより、プロレスというスポーツ自体が、いまではすっかり衰退してしまったのを感じる。

しかし、何のかんのといってもプロレスには、捨てがたい独特の味があるのも確かだ。客席の観衆とリング上のレスラーが、一体となって作り上げる狂乱の祝祭空間というのか。または殺伐とした総合格闘技のリングにはない、約束されたカタルシスの世界とでもいうのか。とにかく、スポーツと芝居とレスラーたちの人生が一体となったような、なんともいえないごった煮の味の深さがそこにはあるんだなあ。

先日、シアター・シエマで観たミッキー・ローク主演の映画『レスラー』は、久々にそんなプロレスの味を思い出させてくれる佳作だった。ミッキー・ロークといえば1992年6月に来日して、著名な俳優ながらボクシングの試合にシースルーのトランクスで登場し、「猫手チョップ」で相手をKOした茶番劇を思い出す。あのときはさんざん酷評されたものだったが、この男、根はやはり格闘技が好きだったんだな。それから幾星霜、この映画で主役のレスラーを演じたロークの肉体は、とても俳優がにわか仕立てでこしらえたとは思えない、みごとな中年レスラーのそれだった。

──20年前には、マジソン・スクエア・ガーデンで主役を張ったこともあるレスラー・ランディも、いまでは年老いてトレーラーハウス住まいをしながら近所のスーパーでアルバイトをする身の上。それでも週末にはマイナーな団体のリングに上がり、現役レスラー生活を続けている。しかし肉体はすでにボロボロで、おまけに薬漬けという最悪パターン。とうとうある日ランディは、試合の後の控え室で心臓発作を起し倒れてしまう。

心臓のバイパス手術を受けたランディだったが、医者からはプロレスはもう無理だと宣告される。そして、思いを寄せる酒場のストリッパー・キャシディや、別れて暮らす一人娘ステファニーのために、ついに引退を決意して堅気の生活に入ろうとするのだが──。話としてはよくあるパターン通りだし、結末もやっぱりなあという感じ。だがこの映画の優れたところは、レスラーの世界を温かな目でリアルに描いた点であり、そこにロークの実像が見事にはまっている点だろう。

ハンディカメラでランディの背中を追う、ドキュメンタリー・タッチの画面。全編を通してスピーカーの底から流れる、中年オヤジのしぶい息づかい。そして、試合の場面の迫真力──。ベビーフェイスとヒールの試合前の打ち合せや、試合後の称え合いなど、控え室での様子も実にうまく描いてある。プロレスの正体をあからさまにひん剥きながらも、そこにはプロレスへのリスペクトと、そこにうごめく男たちへの深い愛情が感じ取れるのだ。

だいいち見た目とは違い、出て来るレスラーは皆いい奴ばかりで、誰もがいたわり合いながら生きている(試合中でさえも!)。過酷な現実の堅気の社会や、辛辣な言葉を並べる女たちに比べれば、そこはなんとも優しい“男の世界”なのだな。ラストシーンで宿敵との試合にカムバックし、好きな女も家庭も自分の命さえも捨てて、コーナーロープの最上段に立つレスラー・ランディの姿には、筆者も感動のあまりついホロリとしてしまったよ。

ここに描かれたプロレスの世界は、おそらくいまの日米マット界の現実に近いものなのだろう。そのむかし国民が熱狂し隆盛を誇ったわが国のプロレスも、K-1や総合格闘技といった勝ち負けのみを追い求める、シリアスな競技の台頭と入れ替わるように、表舞台からはすっかり姿を消してしまった。はっきりいえば、いまやプロレスは斜陽スポーツ。筋書きのあるドラマだということも、すでに公然の秘密だ。力道山や馬場、猪木等がつくりあげた、強い男の象徴でありビッグマネーを手にするプロレスラーのイメージなど、いまでは遠い過去のものになってしまった。

まあ、時の流れといってしまえばそれまでだが、しかしそこには我々が現代社会で忘れかけた、古き良き大事な何かが残っている。そんな気がする。たぶんそれは、日本人にもアメリカ人にも共通したものなのだろう。忘れかけた大事な何か──それをわれわれに思い出させてくれるのが、ボロボロの肉体に鞭打って闘うゴツく優しい男たちなのだ。レスラーって哀しくも美しい奴らじゃないか。このプロレス映画は、そんな彼らへ捧げる熱いオマージュになっている。  


Posted by 桜乱坊  at 11:39Comments(0)本・映画・音楽など