2009年08月11日
プロレスは死なず

東京ドームでアントニオ猪木の引退試合を観たのは、1998年の4月4日のことだった。あれからすでに10年以上が経つが、そんな月日の長さに比例するように、筆者のプロレスに対する興味も薄れてしまったようだ。かつてあれほど好きだったプロレスのテレビ中継も、このごろさっぱり観なくなってしまったもの。というより、プロレスというスポーツ自体が、いまではすっかり衰退してしまったのを感じる。
しかし、何のかんのといってもプロレスには、捨てがたい独特の味があるのも確かだ。客席の観衆とリング上のレスラーが、一体となって作り上げる狂乱の祝祭空間というのか。または殺伐とした総合格闘技のリングにはない、約束されたカタルシスの世界とでもいうのか。とにかく、スポーツと芝居とレスラーたちの人生が一体となったような、なんともいえないごった煮の味の深さがそこにはあるんだなあ。
先日、シアター・シエマで観たミッキー・ローク主演の映画『レスラー』は、久々にそんなプロレスの味を思い出させてくれる佳作だった。ミッキー・ロークといえば1992年6月に来日して、著名な俳優ながらボクシングの試合にシースルーのトランクスで登場し、「猫手チョップ」で相手をKOした茶番劇を思い出す。あのときはさんざん酷評されたものだったが、この男、根はやはり格闘技が好きだったんだな。それから幾星霜、この映画で主役のレスラーを演じたロークの肉体は、とても俳優がにわか仕立てでこしらえたとは思えない、みごとな中年レスラーのそれだった。
──20年前には、マジソン・スクエア・ガーデンで主役を張ったこともあるレスラー・ランディも、いまでは年老いてトレーラーハウス住まいをしながら近所のスーパーでアルバイトをする身の上。それでも週末にはマイナーな団体のリングに上がり、現役レスラー生活を続けている。しかし肉体はすでにボロボロで、おまけに薬漬けという最悪パターン。とうとうある日ランディは、試合の後の控え室で心臓発作を起し倒れてしまう。
心臓のバイパス手術を受けたランディだったが、医者からはプロレスはもう無理だと宣告される。そして、思いを寄せる酒場のストリッパー・キャシディや、別れて暮らす一人娘ステファニーのために、ついに引退を決意して堅気の生活に入ろうとするのだが──。話としてはよくあるパターン通りだし、結末もやっぱりなあという感じ。だがこの映画の優れたところは、レスラーの世界を温かな目でリアルに描いた点であり、そこにロークの実像が見事にはまっている点だろう。
ハンディカメラでランディの背中を追う、ドキュメンタリー・タッチの画面。全編を通してスピーカーの底から流れる、中年オヤジのしぶい息づかい。そして、試合の場面の迫真力──。ベビーフェイスとヒールの試合前の打ち合せや、試合後の称え合いなど、控え室での様子も実にうまく描いてある。プロレスの正体をあからさまにひん剥きながらも、そこにはプロレスへのリスペクトと、そこにうごめく男たちへの深い愛情が感じ取れるのだ。
だいいち見た目とは違い、出て来るレスラーは皆いい奴ばかりで、誰もがいたわり合いながら生きている(試合中でさえも!)。過酷な現実の堅気の社会や、辛辣な言葉を並べる女たちに比べれば、そこはなんとも優しい“男の世界”なのだな。ラストシーンで宿敵との試合にカムバックし、好きな女も家庭も自分の命さえも捨てて、コーナーロープの最上段に立つレスラー・ランディの姿には、筆者も感動のあまりついホロリとしてしまったよ。
ここに描かれたプロレスの世界は、おそらくいまの日米マット界の現実に近いものなのだろう。そのむかし国民が熱狂し隆盛を誇ったわが国のプロレスも、K-1や総合格闘技といった勝ち負けのみを追い求める、シリアスな競技の台頭と入れ替わるように、表舞台からはすっかり姿を消してしまった。はっきりいえば、いまやプロレスは斜陽スポーツ。筋書きのあるドラマだということも、すでに公然の秘密だ。力道山や馬場、猪木等がつくりあげた、強い男の象徴でありビッグマネーを手にするプロレスラーのイメージなど、いまでは遠い過去のものになってしまった。
まあ、時の流れといってしまえばそれまでだが、しかしそこには我々が現代社会で忘れかけた、古き良き大事な何かが残っている。そんな気がする。たぶんそれは、日本人にもアメリカ人にも共通したものなのだろう。忘れかけた大事な何か──それをわれわれに思い出させてくれるのが、ボロボロの肉体に鞭打って闘うゴツく優しい男たちなのだ。レスラーって哀しくも美しい奴らじゃないか。このプロレス映画は、そんな彼らへ捧げる熱いオマージュになっている。