2013年01月14日
アンコウが食べたい

東京から佐賀に戻ってからけっこう月日が経つが、お陰ですっかり遠ざかってしまった食べ物もいくつかある。向こうではポピュラーなのにこちらではさっぱり見掛けない、といったたぐいのものだ。たとえば「中華そば」と呼ばれるスッキリ醤油味のラーメンや、辛子付きの納豆(なぜか九州では辛子がない)、割り下を使った関東風すき焼きやどじょうの丸鍋などもこっちにはないなあ。まあ食文化や嗜好の違いなのだろうが、思い出すとなんだか恋しくなったりする。
筆者にとってこの季節、そんな恋しくなる食べ物の一つにアンコウ鍋がある。アンコウ鍋といってもこれ、そうそう東京で食べられる代物ではない。本場は主に北関東の茨城県なのだ。そんなわけで筆者は向こうに住んでいた頃、冬になるとこのアンコウ鍋を食べるため、よく食い道楽の友人と茨城県まで出掛けて行ったりした。一泊二日の遠征という奴だが、我ながらご苦労なことだ。
アンコウという魚は大型の深海魚で、実にグロテスクな姿をしている。平べったい体に巨大な腹、ギザギザの歯が生えた口はまるで大きなガマグチのよう。体全体が柔らかく皮膚はヌルヌルしているため、「吊るし切り」という独特な方法で捌かれることでも知られている。まさに“怪魚”という呼び名がピッタリなのだが、これをバラして鍋に入れると、肉はもとより皮もヒレも内蔵も何でも食べられる。しかも美味なのだから、不思議というか嬉しい魚じゃないの。
中でも美味いのが、通称「アン肝」ことアンコウの肝臓だ。一度、料理屋のカウンターでこいつの全体を見たことがあるが、そのデカいのには驚いた。なにしろ「海のフォアグラ」とも呼ばれるほどだ。ただし、ボイルして薄く切ったものを薬味を入れたポン酢で食べると、いかにも肝臓らしい口の中で溶けるような食感があり、そこに独特の風味や濃厚なコクが加わって、もう掛け値なしに美味い。いや、あれは一度食べると病みつきになるんだよね。
そんなアンコウ料理を食べさせてくれるのは、茨城県の漁港などにある料理店や旅館だ。筆者らがよく行ったのは、だいたい大洗や平潟といった小さな港町の旅館。前もって宿泊を予約し、ついでにアンコウ鍋を注文しておくと当日、夕食の卓上にこいつがババンと出て来るという寸法だ。大都市である水戸市内の専門料理店にも一度入ったことはあるが、さすがにここは港の旅館に比べるとちょっと値段が高かったね。
で、その日の宿に着き、ひとっ風呂浴びてビールで喉を潤しているうち、鍋はグツグツと煮上がりいい塩梅になる。スープの味はたいてい味噌味で、鍋の中にはアンコウの身や内蔵などのほかに、白菜、ネギ、椎茸、豆腐などが入っている。このスープにはアン肝も摺り込んであるというから、やはり味にコクがあるのだな。おまけに何だか各種ビタミンやらコラーゲンやらが含まれ、ずいぶんと体にも良さそうだし…。
さあこうなったら、後はたらふく食べて飲んでバタンと寝るだけ。理想的なシチュエーションで心はリラックス、大きな口を開け料理を食い、酒とバカ話に夢中になっているうち体はポカポカと温まり、気が付けば筆者らの腹はアンコウのように膨らんでいるのだった。ああ満足──というわけだ。しかし考えてみれば、これは共食いと言えないこともないなあ。
それにしても以前から不思議なのは、アンコウがなぜ茨城県の代表料理なのかということ。まさか日本全国で水揚げするのは、この県だけというわけでもあるまいし…。そう思って調べてみたら驚いた。な、なんと水揚げ量の日本一は茨城県ではなく、九州に近い山口県の下関だというではないか。「灯台もと暗し」とはこのことだ。しかし、それがいったいなぜ…?
どうやらこれには理由があるようだ。そもそもアンコウ鍋は、水戸藩主・徳川光圀公も食したという茨城地方の郷土料理で、アン肝は珍味としてむかしから朝廷にも献上されていたのだとか。しかもアンコウは北の冷たい海で獲れるものほど、身が締まり味も良くなるのだという。まあ、何といっても冬が旬の魚だものな。なので伝統も実力も兼ね備えた茨城県は、アンコウ界のマンチェスター・ユナイテッドということになるらしい。
どうりで佐賀では見掛けないはずのアンコウ鍋だが、世間には「西のフグ、東のアンコウ」という言葉があるそうだ。フグは西日本の温かい海で獲れるものが美味く、アンコウの味は東日本の冷たい海から上がるものが勝る、という意味らしい。なるほど、という気はするけどね…。近ごろフグ鍋にも縁のない筆者が、あの美味いアンコウ鍋に再会する日は、果たしていつになるのだろうか。