2015年04月07日
クサヤの干物はなぜ臭い

風邪が治ってひと月以上も経つというのに、筆者の鼻にはまだ嗅覚が戻らない。おかしいので病院に行ったところ、風邪のウィルスによる嗅覚障害という医者の見立てで、治るまでけっこう時間が掛かるらしい。つまり筆者はいま、ニオイのない世界に住んでいる。そこでこの際なので、ニオイを感じないことの利点は何かといろいろ考えてみた。
まずやっぱり悪臭を気にせずにすむので、トイレ掃除や生ゴミの片付けには好都合だ。強いアンモニア臭も平気だし、ゴミ収集車の作業員だってやれそうな気がする。ワキガや口臭のヒドい人とも楽しく付き合えるし、世界一臭い果物ドリアンも食べられるだろう。今ならあのクサヤの干物でさえ、焼けと言われればいくらでも焼ける自信がある。
もっともクサヤを一日中焼いていたら、衣服がとんでもないことになりそうだ。なんといってもあの煙は、まさに焼けたウ◯コのニオイそのもの。それが衣服に染み付いたまま電車などに乗ったら、周りから人がいなくなるのは目に見えている。こちらは何ともないのに白い目で睨まれたり、シッシッと手で追い払われたり。場合によっては、体から異臭を放つこの怪しい男をなんとかしろ、と車掌に通報されたりするかもね。つまり、それほどクサヤを焼くニオイは強烈なのだ。
早い話が日本の食べ物の中で、焼いたクサヤほどニオイのきついものもないだろう。たとえば居酒屋や小料理屋の主人も、客の注文でこれを焼くときはちょっとだけ躊躇するはずだ。なにしろ飲食中の他の客に申し訳がない。しかも煙が外に出て行けば、近所からコラァ!と苦情が来ることだってあるだろう。そう考えたらやっぱりどんなに心臓に毛の生えた店の主人も、少しだけ罪悪感を覚えるのではなかろうか。まあ、ヤケクソになることはないだろうが…。
そういえば、筆者が生まれて初めてクサヤの煙と遭遇したのは、かつて学生時代の仲間たちと催した恩師を囲む会でのこと。神楽坂の洒落た小料理屋の座敷には懐かしい顔が並び、先生もずいぶん上機嫌だったが、そこに漂って来たのが何とも言えぬあのニオイ。当時は筆者もそれが何なのか分からず、上品な雰囲気なのにずいぶんウ◯コのニオイのする店だと思ったものだ。なので筆者の青春の一ページには、懐かしい顔ぶれとクサヤの煙が一緒になって刻まれている。これがクサい仲という奴だろうか。
ただしニオイは酷いクサヤだが、食べてみるとこれがビックリするほど美味いから困る。なにしろクサヤとは新鮮なアジやトビウオなどを開き、独特の風味をもつ発酵液(クサヤ汁)に漬けて日干しにしたもの。このクサヤ汁こそとんでもないニオイの正体なのだが、実はこれ魚のハラワタを漬けた塩水が、種々の微生物により発酵した秘伝の液体。生産者がそれぞれ長年かけて育てた汁からは、ひと言では言えない複雑なうま味やニオイを持つ干物が生まれるというわけだ。
このクサヤの産地は主に伊豆諸島。かの地は江戸時代から塩が年貢用として貴重品だったため、獲れた魚の干物作りにも塩はふんだんに使えなかった。そのためやむなく漁師たちが発明したのが、使い回しの塩水に漬けて干す方法。ところがこの干物が意外と美味かったため、やがてクサヤはかの地の名産品になったのだとか。ケガの功名とも言えそうな話だが、感謝すべきものはやっぱり微生物なんだろうね。
筆者もそのむかし伊豆半島をドライブした際、土産物屋で美味そうな瓶入りのクサヤを見付け、買って帰ったことがある。ガラス瓶の中に入った焼いて小さくちぎったクサヤの身が、飴色をしてえらく魅力的に見えたのだ。ウン、本当にあれは美味そうだったなあ。ところが家で瓶を開けたとたんオェッとなり、慌ててまたフタをして冷蔵庫の奥へ。後はそのまま年月が過ぎ、とうとう一口も食べないまま、いつしか奴の姿は冷蔵庫から消えていた。あのときもう少し勇気があったなら…、こんな思いをした人は他にもいるのではなかろうか。
それにしてもウ◯コのニオイのする食べ物は、なぜかくも人を惹き付けるのだろうか。世界にはクサヤ以上に臭いといわれるものがいくつもある。イヌイットがアザラシの腹の中に海鳥を詰め込んで発酵させる「キビヤック」や、エイの壺漬けを牛糞の中で発酵させた韓国の「ホンオフェ」、世界最恐のニシンの缶詰といわれるスェーデンの「シュールストレミング」などは有名だ。筆者なんか、もう説明を聞くだけで倒れそうになるが、かの地の人々はきっとこれが死ぬほど好きなのだろう。「蓼食う虫も好きずき」とはまさにこのことだ。
これらの食べ物に共通しているのは、いずれも発酵食品だということ。これはクサヤも同様だ。では発酵食品のニオイの元は何かというと、つまりは微生物たちの出す廃棄物。人間のウ◯コが腸内細菌のおかげで臭いのも同じことで、結局われわれは微生物たちの出すウ◯コのニオイを嗅ぎながら、発酵食品を食べているってわけ。でもこれが抜群に美味いのだから仕方がない。
そんなわけで、今なら筆者もニオイを気にせずクサヤが食べられる。嗅覚はダメだが味覚の方は全然OKなのだから。でも果たして、ウ◯コのニオイのしないクサヤは美味いのだろうか? 結果は初めから見えている気がするなあ。