2013年09月14日
佐賀は「礼儀の国」

礼儀正しさは、外国人がよく指摘する日本人の美点の一つだ。これ、自分たちでは気が付かないが、彼らからすればずいぶん新鮮で感動的な発見なのだろう。思えばわれわれは人と会うときなど、何回もお辞儀を繰り返している。また年上の人には必ず敬語を使うし、年長者も年下に対しやたらと威張ったりはしない。人前で大声で喋ったりするのは下品とされ、丁重で折り目正しい態度が上品とされている。友人同士だって「親しき仲にも礼儀あり」なのだ。
YouTubeなどには、外国人が撮影したそんな日本人の「礼儀正しさ」が満載だ。例えば、デパートでの店員の接客態度の美しさ。救急車が緊急出動する際、道を塞いでしまった通行人に対し、他の救急隊員が申し訳なさそうに頭を下げる光景。プラットホームに入る電車に向かい、静かにお辞儀をする清掃員の姿などなど…。日本人にとってはごく普通の誠意の表し方も、彼らの目から見れば「ワオ!」であり「アンビリバボー!」なのだから、日本はやはり麗しい“礼儀の国”なのだろう。
そうやって考えてみれば、われわれの普段の生活は“礼儀”に満ちている。中でも日々の挨拶は、欠かすことの出来ないその一つだ。学校でも職場でも新人がまず最初に叩き込まれるのがこの挨拶であり、これを欠かせばその学校や職場の教育は「なっとらん!」ということになる。それよりなにより、その人物の育った家庭環境が疑われるというものだ。
そういえば、筆者が長い東京暮しから佐賀に戻ってまず驚いたのが、道で出会う見知らぬ少年少女に挨拶されることだった。遊んでいる小学生などから一斉に「こんにちわぁ!」と頭を下げられ、思わず「え、俺のこと?」とドギマギしたりしたものだ。これが生意気盛りの中高校生などにすれ違いざま挨拶されると、「大人をからかってるのか、コノヤロー!」と最初は半信半疑だったのを思い出す。まあ一応、こちらもちゃんとみんなに応えてはいたけどね…。
そのうちだんだん慣れて来て、ようやく彼らが家庭や学校で躾けられた通り、目上の人に向かい挨拶しているのだと気が付いた。考えてみれば自分も子供の頃、学校でそんなことを教わったような記憶があるし、これは佐賀県が誇るべき美風なのだと今では認識している。うんうん、えらいぞ! なので近頃は道などでむこうから彼らがやって来るのを見ると、こちらもよーし!と心の中でスタンバイするようになった。で、「こんにちわぁ」には間髪入れず、「はい、こんにちは」とバッチリ応えている。
まあ、筆者の心も佐賀に戻ってだいぶ洗われて来たようだが、しかしこれにはその理由がある。というのも、東京ではこうした見知らぬ小中高の生徒と挨拶を交わすなど、ただの一度もなかったからだ。むろん、それは彼らが礼儀知らずだからではない。悲しいかなそれが都会の子供のごく普通の姿であり、見知らぬ大人に自分から声を掛けるなど、家庭や学校からすればあってはならないことなのだ。ましてヘタに大人から声を掛けようものなら、彼らに防犯ブザーを鳴らされかねないのが実情だ。
以前、水彩画を描くのが趣味の筆者の友人が、スケッチ用に公園で写真を撮っていたところ、「子供の写真を撮っていたでしょ?」と母親らしい女に詰め寄られ、変質者あつかいされたと大いに嘆いていたことがあった。なんだか可笑しくもあり同情したくもなる話だが、それが都会の現実というものだろう。それに引き換え、見知らぬ大人に子供たちが気持ちよく挨拶してくれる佐賀は、向こうから見れば純朴で美しい夢のような世界なのかも知れないなあ。
こんな佐賀の礼儀正しさは、別に子供たちに限った話ではない。道路を横断しようとすればたいてい車が停まってくれ、運転者は丁寧に頭を下げてくれるし、狭い路地などですれ違う女性(老若を問わず)の中には、こちらに軽く会釈をして行く人もいる。この辺りは、ガサガサした無味乾燥の東京に比べれば、とても優美で温かく心地が良い。「ご免!」なんて、まるで時代劇の侍の気分も味わえるというものだ。
お陰で無作法だった筆者も以前に比べれば、ずいぶん礼儀正しくなったような気がする。これもみんな社会環境の故なのだが、ここにずっと住んでいる人はその良さに気が付かないんだろうね。これは外国人に言われて、初めて自分たちの良さに気が付く日本人と同じ。何ごとものんびりと活気のないのが難点の佐賀だが、せめてこうした礼儀における美風だけはいつまでも残しておいて欲しいものだ。