2020年11月30日

ピアノの音が聞こえる

ピアノの音が聞こえる

道を歩いているとどこからか、ふと楽器の音が聞こえたりすることがある。そんなときは、急に世界が変わったような気分になるから不思議だ。筆者が以前住んでいた東京の墨田区には、向島というなかなか風情のある料亭街があった。どこも一見さんには近寄り難い店ばかりだったが、あるときその近所の裏通りを散歩していたら、どこの家からか三味線を爪弾く音が聞こえてきて、ホッコリした記憶がある。ちょっとだけ向島の料亭の雰囲気を味わったようで、なんだか得をした気がしたのだ。

それは昼間のことだったから、住んでいる芸者さんが夜のお務めの前に、一人で稽古をしていたのだろうか。何となく粋な普段着姿で三味線を爪弾く、若い美人芸者の姿が目に浮かび、そのとき筆者の心は妙にざわついてしまったのだった。まあ実際は超ベテランのお婆さんだったかも知れないが、そんな場合は若い美人の奏者をイメージした方が、世の中は楽しくなる。相手の姿が見えないぶん、想像は自由だからね。

閑静な住宅街の通りだと、たまにピアノを弾く音に遭遇することがある。初心者が弾くたどたどしいバイエルには、通行するこちらも微笑ましい気持ちになる。だが、これが見事なメロディを奏でるピアノだったりすると、つい窓下に立ち止まってしばらく聴いていたくなるから、楽器の力とは恐ろしい。何と言ってもピアノの音色には、人を魅了する魔力があるものな。もっとも、いくら演奏に聞き惚れたからといって、他人の家の窓下にじっとしていると、警察に通報されかねないので注意が必要だ。ましてピアノの奏者が若い美人なら、ストーカーだと疑われる危険性もある。ギスギスと無粋な世の中になったものだ。

日本を代表する作曲家の一人である武満徹は、独学で音楽を学んだことで知られるが、この人、若いときはビンボーでピアノが買えなかったという。そこで紙に書いた鍵盤を指で叩きながら、頭の中で音のイメージを膨らませたのだとか。そして町を歩き、ピアノの音が聞こえる家を訪ねては弾かせて貰ったというから、まるで映画の一場面のようなエピソードじゃないか。見ず知らずの家にピアノを弾かせて下さいと上がり込む、音楽青年の情熱もスゴイが、快く迎え入れて弾かせてあげる人の心もまた温かい。しかしどこの馬の骨か分からない青年が、のちに国際的な作曲家になろうとは、迎え入れた家の人たちも考えなかっただろうな。

ちなみにこの話には後日談があり、結婚しても楽器さえ買えない生活を続けていた武満のもとに、ある日一台の立派なピアノが送られて来る。送り主の名は黛敏郎。友人の芥川也寸志から武満の困窮を聞いた黛が、それではということで妻が使っていたピアノを贈ったのだという。のちに親交を結ぶ二人だが、このときはお互いまだ面識のない者どうし。一足先に現代音楽の作曲家として活躍していた黛が、武満の才能を惜しんで助け舟を出したという話だ。ほぼ同時期に生まれほぼ同時期に世を去った、二人の国際的作曲家の若き日のエピソードは、やはり映画の一場面のように美しい。

そう言えば筆者は公園や河原などの屋外で、たまに管楽器の練習をしている若者を見かけたりするな。なんたってラッパ系の楽器は音が大きく遠くまで響くから、家の中で吹くわけにはいかないのだろう。なので、周りに誰もいない大きな橋の下とか、あまり人の来ない公園の一隅とか、独りでコッソリ練習出来る場所が必要になる。トランペットなんか河原で思い切り吹けば、きっと本人もスカッとするはずだ。ただしあまり下手クソな場合は、釣り人や水面を泳ぐカモの顰蹙を買いそうだが。

そうそう、筆者は佐賀市の森林公園で一度、チューバを吹いている若者に出会ったことがある。チューバは大型の金管楽器で、ブラスバンドの必須アイテム。ただし、マーチなどの演奏では派手なトランペットと違って、低音で縁の下の力持ち的な役割が得意だ。そのとき公園で聞こえて来たのは、聞き覚えのあるスーザの行進曲のパートだったが、若者は同じ箇所を何度も繰り返し吹いていた。歩きながらその音を聞いていた筆者は、お陰で知らず知らず歩き方が行進調になってしまったね。やはり楽器の力は恐ろしい。これは不思議だが、きっと街なかでチューバのソロでマーチを奏でたら、通行人はみんな行進するんじゃなかろうか。

しかし、流れて来るものが美しい楽器の音色だったら、聞く方もまだ安心だ。これが得体の知れない音だと、どんな人間もちょっと背筋が寒くなる。ずいぶん前の『探偵ナイトスクープ』では、奇妙な調査依頼があったっけ。それは毎夜8時頃になると、自宅の裏山からホラ貝を吹く音が聞こえるので、どんな人物が吹いているのか調べて欲しいというもの。金田一耕助も青ざめるような怪奇な話だが、探偵が調べたところ血も凍るような恐ろしい事件などではなく、単に投稿者の同級生の父親が練習していたという話だったような…。はあ、お疲れさん。やっぱり音の出るものの練習は、なべて昼間に限るということかな?



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Posted by 桜乱坊  at 14:50 │Comments(1)本・映画・音楽など

この記事へのコメント
散歩中に聞こえるピアノの音は好きです。心がなごみますね。ところが、大勢の人の中には、パラノイアみたいな者がいて、隣人のピアノの音を経済的な嫉妬心からと考えますが、極端に嫌悪する場合があります。小生の知人の話で、何事もなく昔のことになりましたが、ピアノの音の隣人トラブルがありました。知人が小学生だった子供にピアノを買い与え練習させていたら、それまで子供が同級生同士のママ友だったのに、ある日から挨拶もしなくなったそうです。我が子に尋ねたら「〇子ちゃんのママは、うちのピアノの音が聞こえると血相が変わるみたいだって」と子供同士は正直なものです。当時、藤沢市でアパートの上下の居住人同士、子供のピアノの音を巡ってトラブルになり、挙句には男が母子を刺し殺した事件がありました。それでピアノ練習は中断し、引っ越しました。都会は家と家の間隔が狭いのでややこしいことです。
Posted by 桜田靖 at 2020年12月01日 11:26
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