2022年03月31日

『紅い花』の季節に思う

『紅い花』の季節に思う

いよいよ桜が咲いて春爛漫という季節になった。金のかからない散歩が趣味の筆者だが、この季節は歩きながら花見が出来るのが嬉しい。筆者にとって春の散歩は、メタボ対策でありまた目の保養でもある。つまり一石二鳥というやつだ。だが百花繚乱というように、この季節は桜以外にも様々な花が咲いている。中でも筆者が気になるのが、ヤブの中に真紅の花を咲かせる椿なのだ。椿の紅い色は、本当に深い色なんだよな。

筆者が椿の花の色に惹かれるのは、たぶんある名作マンガにイメージが重なるからだろう。そのマンガとは、つげ義春の『紅い花』だ。筆者がこのマンガと出会ったのは、ずいぶんむかしのことだが、まるで映画のような場面構成と物語の深い叙情性に、衝撃を受けたのを覚えている。マンガでここまで表現出来るのか、という驚きは新鮮だったね。そのクライマックスシーンに登場する紅い花は、マンガでは名前は伏せてあるものの、どう見ても椿なのだ。

モノクロのマンガなのでむろん色はついてないが、その花の色は黒ベタで表現してある。黒は真紅の花の色を連想させる。しかも、重たげな首がとれてポタリと水面に落ちる様は、椿そのものと言っていいだろう。ところがこの物語の設定は、陽光まぶしくセミの鳴く真夏になっている。つまり少年と少女の、真夏の初恋物語のシンボルが、冬から春に花を咲かせる真紅の椿というわけだ。筆者はここに作者であるつげ義春の、自由なイメージの広がりを感じるんだよなあ。

そういえば、筆者が同氏の『長八の宿』というマンガに旅心をくすぐられ、舞台である西伊豆の松崎を訪ねたのも、ずいぶん前のことだった。これは旅をする主人公が、松崎の「長八の宿」という古い旅館に泊まり、そこに住むジッさんという下男と心の交流をするという物語。まるで短編小説を読むような、作者の豊かな才能を感じさせる作品だが、ラストシーンでは別れを迎えた二人の前に、駿河湾越しに巨大な富士山が姿を見せるのが印象的だった。マンガでは最後の1ページをまるまる、ドーンと富士山のシルエットが占めていたっけ。

そこで筆者も同じ体験をしてみようと、西伊豆の海岸線沿いの道路を路線バスで南下したというわけ。その日は天気も好く、初めのうち車窓からは富士山の美しい姿が、海の向こうにはっきりと見えていた。ところがバスが南に下るにつれ、富士山はどんどん小さくなる。そして土肥を過ぎ堂ヶ島を過ぎ、ついに松崎に着いた頃には、霞の向こうに消えてしまっていたのだった。つまり、マンガで描かれたような巨大な富士山のシルエットは、作者のまったくの虚構だったわけだ。なあんだと筆者はそのとき思ったが、考えてみればそれもまた作者の自由な想像力の産物。創作とはこういうものかと、教えられたのだった。

しかし今あらためて、本棚からつげ義春の作品集を引っ張り出してみると、1960年代後半から70年代前半にかけての氏の仕事は、珠玉作品のオンパレードだ。『海辺の叙景』や『紅い花』『ほんやら洞のべんさん』といった叙情性あふれるものから、『山椒魚』『ねじ式』『ゲンセンカン主人』のようなシュールなものまで、どれも作家の才能があふれ出た、きらめくような作品ばかり。つげ義春は、マンガの新たな世界を切り拓いた開拓者なのだ。この人の本当にスゴいところは、画力も素晴らしい(若いときに限る)が、ストーリーテラーとしても非凡なところだろう。

そんな筆者が驚いたのは、ついこの2月のこと。なんとそのつげ義春氏が、日本芸術院の会員に選出されたというニュースが目に入ったのだ。ええっ、ホンマかいな? 日本芸術院といえば、わが国の優れた芸術家を顕彰する文化庁の機関。その会員には美術や文芸・音楽・演劇など、斯界の巨匠ともいうべき錚々たる人物が名を連ねている。とてもマンガ家などが入り込む隙間のない、ハイソな世界だと筆者は思っていた。ましてつげ義春といえば知る人ぞ知る、世の中の底辺を生きるビンボー作家という印象が強い。この選出には、誰だって驚いたんじゃなかろうか。

もっとも、長年のファンである筆者にとって、これは嬉しいニュース。なにしろ、ようやく氏の作品に日が当たり、高い芸術性が国にも認められたわけだ。まるで泥の中に眠っていた古代ハスの種が、一気に花を咲かせたようなものじゃないか。これはマンガの地位向上にもつながる話だし、氏の名作の数々はもっと多くの人に読まれるべきだと思う。ニュース画像で見た最近のつげ氏は、すっかり白髪のおバアさんのような風貌になっていたが、まだまだお元気そうだった。人生の最晩年に栄誉を手に入れた氏には、今後もさらに長生きをしてほしいね。



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Posted by 桜乱坊  at 11:57 │Comments(1)本・映画・音楽など

この記事へのコメント
赤い花、これからツツジ、花水木など、でも青葉若葉に加えて黄色や白など色とりどりの花が咲き乱れますね。実は一月の中旬に西伊豆を旅しました。この方面のアクセスは相変わらず悪いですね。今回は食い気の旅で天然記念物の「高足がに」を一度は食べたいという願望を叶えました。このカニは大きくて普通は西伊豆の「戸田」でしか提供されない、注文は単位が「一はい」一人で食べきれる量ではありません。家内と二人でやっと完食しました。高足カニは、肉量は多いが大味で一度食べれば満足でした。宿は土肥温泉にしか取れなかったので、翌朝土肥から戸田まで路線バスもなくタクシーを使いました。もっと若くて元気でしたら伊豆長岡付近は「鎌倉殿の十三人」の舞台で帰途に物見遊山したのですが、とにかく疲れて直帰しました。二月に出直して伊東温泉に旅して、伊東祐親、八重姫のゆかりの地を見物しました。頼朝と八重姫の子の「千鶴丸」は祐親の命により、川に沈められ殺されたのが通説ですが、地元の歴史家は、実際は不憫に思った家来が生き延びさせ、末裔が宮崎・鹿児島に多いと力説していました。そういえば、戦国時代か室町の世か宮崎に「伊東城」があったのは事実ですね。吾妻鏡も勝者の記録ですから、何とも言えません。
Posted by 桜田靖 at 2022年04月21日 11:27
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