2012年01月07日
空の大怪獣ラドンと西海橋
新しい一年が始まった。大震災に原発事故、加えて政府の対応も失敗だらけで、まるで良いことのなかった昨年だったが、今年は無事息災と行きたいもの。人間、生きる為には何ごとも切り替えが大切だ。明るい一年とするために、筆者もスカッと気分の晴れる場所へ行きたくなった。

そんなわけで正月早々訪れたのが、長崎県佐世保市にある景勝地・西海橋。ここを選んだのに別に深い理由などはないが、まず初詣での参拝客で混雑する神社仏閣などは避けたかったのと、とにかくスカッと展望の開ける景観を見て気分を一新したかった。それともう一つには、筆者のお気に入りのある映画の舞台を、この目で確かめてみたいという以前からの願望もあったのだ。で、まあこの際だし行ってみるかと決めたってわけ。
その映画とはズバリ、東宝の特撮ものの傑作『空の大怪獣ラドン』。1956年公開のこの映画には、物語の舞台が全て九州ということもあり、筆者は子どもの時分から不思議な親近感を抱いて来た。何といっても怪獣ラドンが生まれたのは阿蘇山近くの地底の大空洞だし、大暴れして破壊する都市は福岡市の天神地区だ。前半の舞台となる小さな炭鉱町の様子などは、当時の佐賀県民にはどこか見慣れた風景だったに違いない。♪生まれも育ちもまるまる九州たい〜、という村田英雄の唄のような怪獣、それがラドンなのだ。
そのラドンが阿蘇から舞い上がり西に向かい、自衛隊のF-86Fセイバー戦闘機の追跡を受けながら、最初に破壊する巨大な人工構築物こそ、佐世保市にある西海橋だったというわけだ(佐賀県はなぜか素通り…)。当時のこの橋は、完成したばかりの新観光スポット。映画では、大急ぎで退避する観光バスの姿なども挿入されている。東宝のスター怪獣の標的となるには、ここはもってこいの存在だったのだろう。
寒風の中はるばる実地検証にやって来た筆者も、まあ物好きといえば相当物好きだが、しかし来てみてやはり良かったね。西海橋は映画の通りの雄大さと美しさを兼ね備えた、見事なアーチ式橋脚だったのだ。むろん周辺の景色も素晴らしい。きっとここをロケハンで訪れた当時の撮影スタッフも、思わず「こりゃ行ける!」と叫んだに違いない。
映画ではこのアーチの下の海面にラドンが突っ込み、やがて反対側の海面から再び空中へ飛び上がることになっている(吊ってあるワイヤーが丸見えだが)。後を追う自衛隊機もこのアーチの下をくぐるわけだが、ここは映画の中でも特に迫力に満ちた場面として、筆者の印象に残っている。いわば見せ場の一つだ。橋のスケール感がラドンの巨大さと自衛隊機の小ささを際立たせ、自然と人間との相克をシンボライズしているように見えるのがいい。
橋はその後、反転上昇したラドンのソニックブームにより真ん中からグニャリと折れ曲がるが、現在も橋のその辺りに立つと、手摺や鉄骨などには修復工事の跡がかすかに見て取れる。きっと当時は、突貫工事で大変だったんだろうなあ…(そんなこたないっ!)。とにかく映画を見た後ここに立つと、不思議な気分を味わえることは請け合いだ。
そんなわけで西海橋の現在の姿を確認して気分がスカッとした筆者は、寒風に耐えながら歩いて橋を渡り、反対側のたもとにあるレストランで昼食をとったのだった。そこで食べた海鮮丼はそこそこ美味かったが、なにより窓の外の景観は最高のご馳走だったね。ただし、少し気になることもいくつかあった。
一つはお正月だというのに、ここでの観光客の少ないこと。レストランのお客もまばらなら、土産物売場もまたまばら、広大な無料駐車場もガランとしたままなのだ。いくらこの時期は神社仏閣に人が集中するとはいえ、西海橋だって有名観光地のはずじゃあないの。書き入れ時にこの様子では、人ごとながら心配にもなるというもの。
そこでもう一つ気になったのが、どこを探しても辺りにラドンの「ラ」の字も出て来ないことだ。まあゴジラやモスラほどではないにしろ、ラドンだっていちおう名の売れた東宝映画のスター怪獣のはず。そのラドンが破壊したご当地の西海橋で、これを商売に活用しないのはあまりに勿体ない話だと思う。
東宝の怪獣ファンは今でも国内外に大勢いるはず。せめて橋のたもとに「ラドン記念碑」を建てるとか、土産物屋にラドンせんべいやラドンチョコ、あるいはフィギュアやキーホルダーを並べるとか、話題作りはいくらでも出来るんじゃないのかね。映画会社とのタイアップで、ここでDVDを販売するなんていうアイディアもあって良い。とにかくこのままでは、せっかくの観光資源が泣くというもの。ラドンファンの筆者としては、西海橋はむかしも今も人気観光スポットであり続けてほしいのだ。

帰りは長い遊歩道を歩き、西海橋のすぐ西側に2006年に出来た新西海橋を渡って元の駐車場へ。新旧二つの橋はすぐそばを並行しているため、それぞれからお互いの美しいアーチ式のフォルムをじっくり眺めることが出来る。撮影には最高で、こんな場所も珍しいんじゃないのかな。ラドンの新作映画が出来たあかつきには、この新しい橋もぜひソニックブームでひん曲げて貰いたいものだ。

そんなわけで正月早々訪れたのが、長崎県佐世保市にある景勝地・西海橋。ここを選んだのに別に深い理由などはないが、まず初詣での参拝客で混雑する神社仏閣などは避けたかったのと、とにかくスカッと展望の開ける景観を見て気分を一新したかった。それともう一つには、筆者のお気に入りのある映画の舞台を、この目で確かめてみたいという以前からの願望もあったのだ。で、まあこの際だし行ってみるかと決めたってわけ。
その映画とはズバリ、東宝の特撮ものの傑作『空の大怪獣ラドン』。1956年公開のこの映画には、物語の舞台が全て九州ということもあり、筆者は子どもの時分から不思議な親近感を抱いて来た。何といっても怪獣ラドンが生まれたのは阿蘇山近くの地底の大空洞だし、大暴れして破壊する都市は福岡市の天神地区だ。前半の舞台となる小さな炭鉱町の様子などは、当時の佐賀県民にはどこか見慣れた風景だったに違いない。♪生まれも育ちもまるまる九州たい〜、という村田英雄の唄のような怪獣、それがラドンなのだ。
そのラドンが阿蘇から舞い上がり西に向かい、自衛隊のF-86Fセイバー戦闘機の追跡を受けながら、最初に破壊する巨大な人工構築物こそ、佐世保市にある西海橋だったというわけだ(佐賀県はなぜか素通り…)。当時のこの橋は、完成したばかりの新観光スポット。映画では、大急ぎで退避する観光バスの姿なども挿入されている。東宝のスター怪獣の標的となるには、ここはもってこいの存在だったのだろう。
寒風の中はるばる実地検証にやって来た筆者も、まあ物好きといえば相当物好きだが、しかし来てみてやはり良かったね。西海橋は映画の通りの雄大さと美しさを兼ね備えた、見事なアーチ式橋脚だったのだ。むろん周辺の景色も素晴らしい。きっとここをロケハンで訪れた当時の撮影スタッフも、思わず「こりゃ行ける!」と叫んだに違いない。
映画ではこのアーチの下の海面にラドンが突っ込み、やがて反対側の海面から再び空中へ飛び上がることになっている(吊ってあるワイヤーが丸見えだが)。後を追う自衛隊機もこのアーチの下をくぐるわけだが、ここは映画の中でも特に迫力に満ちた場面として、筆者の印象に残っている。いわば見せ場の一つだ。橋のスケール感がラドンの巨大さと自衛隊機の小ささを際立たせ、自然と人間との相克をシンボライズしているように見えるのがいい。
橋はその後、反転上昇したラドンのソニックブームにより真ん中からグニャリと折れ曲がるが、現在も橋のその辺りに立つと、手摺や鉄骨などには修復工事の跡がかすかに見て取れる。きっと当時は、突貫工事で大変だったんだろうなあ…(そんなこたないっ!)。とにかく映画を見た後ここに立つと、不思議な気分を味わえることは請け合いだ。
そんなわけで西海橋の現在の姿を確認して気分がスカッとした筆者は、寒風に耐えながら歩いて橋を渡り、反対側のたもとにあるレストランで昼食をとったのだった。そこで食べた海鮮丼はそこそこ美味かったが、なにより窓の外の景観は最高のご馳走だったね。ただし、少し気になることもいくつかあった。
一つはお正月だというのに、ここでの観光客の少ないこと。レストランのお客もまばらなら、土産物売場もまたまばら、広大な無料駐車場もガランとしたままなのだ。いくらこの時期は神社仏閣に人が集中するとはいえ、西海橋だって有名観光地のはずじゃあないの。書き入れ時にこの様子では、人ごとながら心配にもなるというもの。
そこでもう一つ気になったのが、どこを探しても辺りにラドンの「ラ」の字も出て来ないことだ。まあゴジラやモスラほどではないにしろ、ラドンだっていちおう名の売れた東宝映画のスター怪獣のはず。そのラドンが破壊したご当地の西海橋で、これを商売に活用しないのはあまりに勿体ない話だと思う。
東宝の怪獣ファンは今でも国内外に大勢いるはず。せめて橋のたもとに「ラドン記念碑」を建てるとか、土産物屋にラドンせんべいやラドンチョコ、あるいはフィギュアやキーホルダーを並べるとか、話題作りはいくらでも出来るんじゃないのかね。映画会社とのタイアップで、ここでDVDを販売するなんていうアイディアもあって良い。とにかくこのままでは、せっかくの観光資源が泣くというもの。ラドンファンの筆者としては、西海橋はむかしも今も人気観光スポットであり続けてほしいのだ。

帰りは長い遊歩道を歩き、西海橋のすぐ西側に2006年に出来た新西海橋を渡って元の駐車場へ。新旧二つの橋はすぐそばを並行しているため、それぞれからお互いの美しいアーチ式のフォルムをじっくり眺めることが出来る。撮影には最高で、こんな場所も珍しいんじゃないのかな。ラドンの新作映画が出来たあかつきには、この新しい橋もぜひソニックブームでひん曲げて貰いたいものだ。
2011年12月08日
夢が叶ったサガン鳥栖

とうとうこんな日がやって来た。まさか、夢が現実のものになろうとは──! そう、サッカーJ2のサガン鳥栖が、ついに宿願であるJ1への昇格を成し遂げたのだ。来季からは晴れの舞台である日本の最高リーグで、ガンバ大阪や名古屋グランパス、それに鹿島アントラーズや落ちぶれたとはいえ浦和レッズなど、ビッグクラブとの熾烈な戦いが待っている。きっとホームのベアスタにも、多くのサポーターが駆けつけることだろう。ドキドキするなあ。
実は今季の後半から鳥栖の怒濤の快進撃が始まったとき、このブログでも応援記事を書かなければと何度も考えた。しかし、どうもそんな記事をアップしたとたんに不敗記録がストップし、たちまち黒星が並んだらどうしようかと、ペシミストの筆者はつい躊躇してしまったのだ。仮にそんなことになったら、責任は重大だもんな。いや、もちろんこのブログと鳥栖の勝敗には、何の因果関係もないんだけどね。
そんなわけで昇格が決定したラストのロアッソ熊本戦まで、テレビまたはラジオの前で手に汗を握り続けたわけだが、最後の最後までこれが本当に現実なのか、半信半疑だったのは筆者だけではないだろう。何といっても今シーズンの指揮は、就任一年目の尹晶煥監督。これまで鳥栖を手塩にかけて育てて来た松本育夫氏や、熱血漢・岸野靖之氏が幾たびも挑戦してなし得なかった快挙を、若い韓国人の新米指導者があっさりやってのけたのだから、もう驚くほかはない。
もっとも尹晶煥監督は、よそからヒョイとやって来た人ではない。選手生活の最後を鳥栖で迎えたOBであり、そのままこのクラブに残り松本氏や岸野氏からコーチ学の薫陶を受けた、いわば生え抜きの指導者なのだ。つまり英才教育という奴で、新日本プロレス風にいえば“闘魂伝承”。そういう意味ではこの快挙は、松本イズム、岸野イズムを時間をかけて尹監督に受け継がせた、サガン鳥栖フロントの長期戦略の賜物ともいえるだろう。やっぱり組織が成長するためには、コンセプトの一貫性が大切なのだな。
今季は、数的優位を作りながらプレスをかけ続けるという鳥栖伝統の戦い方に加え、藤田直之のキックやロングスローから、大型FWの豊田陽平らがヘッドで決めるという得点パターンが増え、チームは本当に勝負強くなった。後半戦第24節から第35節まで16試合不敗なんて、信じられないような記録だものなあ。豊田はJ2の得点王に輝いたが、来季もぜひ鳥栖の選手として頑張って欲しい。いや、いなくなると困るのだよね。
それというのも、J2で大活躍してチームをJ1に押し上げた選手が、高額で金持ちクラブに引き抜かれ、せっかくの翌年の晴れ舞台が戦力ダウンというケースが意外に多いのだ。豊田の場合、すでにガンバ大阪や清水エスパルスが触手を伸ばしていると聞く。まあプロの選手である以上、高いギャラで引き抜かれるのは名誉なことだと分かってはいるが、そこを何とか一年だけでもグッと辛抱して貰い、ぜひ今年頑張った選手を中心にしたチームで、来年のJ1に“サガン鳥栖旋風”を巻き起こして欲しい。これは筆者の切なる願いなのだが…。
あと、FC東京がJ2で優勝し、鳥栖とともに来年の昇格を決めたのも嬉しい。もともとFC東京は、筆者が東京に住んでいたときに応援していたチーム。有望タレントの宝庫といわれながら、昨年はまさかの2部降格で、やきもきしていたファンも多かったはずだ。筆者もその一人で、順当に行けば昇格は堅いと信じてはいたものの、最後に実力を発揮してくれてホッとしている。やっぱり首都東京のチームがJ1にいないのは、どう考えてもまずいもんな。来季は、かつて大分を率いたポポビッチ氏を監督に迎えるらしいが、華々しい活躍を期待しているぜ。
そしてもう一つ嬉しいのが、柏レイソルの今季のJ1優勝だ。何を隠そう柏市は、筆者が東京に引越す前に住んでいた街で、今でも駅前の街路地図はだいたい頭の中に残っている。優勝報告会が行われた柏駅西口の広場といえば、すぐにああ、あそこか!と分かるし、来年にパレードが予定されている三小通りは、筆者が当時住んでいたアパートがあった所だ。今頃は街中をきっと黄色いフラッグが覆い、お祝いムードがあふれていることだろうが、長く住んだ街というのは何年経っても懐かしい。いや、本当に良かったよ。
こうしてみると今年のJリーグは、ふるさと佐賀のサガン鳥栖に前居住地のFC東京、そしてその前に住んでいた柏レイソルと、奇しくも筆者と縁のある3地域のクラブが全てハッピーエンドを迎えている。こんなこともあるんだなと感慨深いが、これも地元にJリーグのクラブがあるお陰だ。これはサッカーに興味のない人や、地元にJリーグのクラブのない人には分からないだろうが、しみじみと良いものなのだ。個人と地域との関係を考える上で、Jリーグは重要なカギを提供してくれている。
2011年11月25日
由紀さおりが欧米で人気

最近ちょっと話題になっている、というかビックリさせられたニュースがある。話題の主は歌手の由紀さおり。なんと現在、彼女の歌がアメリカやヨーロッパで大人気というのだから驚いた。なんであのオバチャマが今頃?というのが正直なところだが、ネットやテレビなどの情報を見ると、どうもこれ事実のようなのだ。世の中、何が起こるか分からない。
それによればきっかけは、彼女がアメリカのジャズオーケストラ「ピンク・マルティーニ」と共演したアルバム「1969」が、世界24カ国で発売されたこと。このアルバムは1969年に話題になった日本と世界の曲、12曲を集めたものだが、注目すべきは1曲以外はすべて日本語で歌われているところ。しかも、そのうち約半分が日本の歌謡曲なのだ。
タイトルを見ると、ピーター・ポール&マリーの「パフ」やアストラッド・ジルベルトの「マシュケナダ」などと並んで、彼女自身のデビュー曲「夜明けのスキャット」を始め、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」、黛ジュンの「夕月」など、あのころ筆者らをドキドキさせた歌謡曲の名作が名を連ねている。おお、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」もあるじゃないの。なんか非常に懐かしいね。
で、このアルバムがいまアメリカやカナダ、ギリシャやシンガポールなど世界各国で、iTunesやCD売上げの上位にチャートインしているというから、本当にビックリだ。筆者もさっそくYouTubeで、彼女の歌う「ブルー・ライト・ヨコハマ」を聴いてみたが、ラテン風にアレンジされた大人の曲になっており、いしだあゆみのオリジナルとはまた違った良さが出ていた。またロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの、ピンク・マルティーニのコンサートで歌った「夕月」は、バックコーラスも含め周りが全て外人という一種異様な雰囲気だったが、この曲の美しさを彼女にあらためて教えて貰ったよ。
それにしても疑問なのが、日本語でOKなの?ということ。何といっても、相手は言葉の通じない外国人。歌詞の意味など分からないだろうにと思うのだが、どうもそれはあまり問題じゃないらしい。やはり彼女の確かな歌唱力、美しい声、そして優しく柔らかな日本語の響きが、彼らの琴線に触れたようなのだ。そういえば50年前に全米で大ヒットした坂本九の「上を向いて歩こう」も、10年前に南米で人気を博したTHE BOOM の「島唄」も、ともに日本語のままだったのを思い出す。考えてみれば日本人だって、言葉の分からない外国の歌をそのまま有り難く歌ったりしているものな。音楽とはそういうものなのだろう。
だがそれより何より、1969年頃と言えば歌謡曲の黄金時代。思えばあの当時の歌謡曲は、いま聴いても心が震えるような名曲が本当に多いのだ。練り上げられた美しく簡潔な日本語の歌詞に、誰もが覚え易く歌いやすいメロディアスな曲──。作詞家でいえばなかにし礼や阿久悠といった新鋭たちがいて、作曲家では中村八大やいずみたく、筒美京平や平尾昌晃らが腕を競い合っていた。
そこに職人芸のアレンジャーが加わり、個性派揃いの歌手たちが命を吹き込めば、続々とヒット曲の誕生だ。お陰でテレビのベストテン番組は大人気。和もの洋もの何でもありの歌謡曲は、老人から子どもまでが口ずさめる、まさにヒット曲のジャングル、且つその時代の象徴であり、国民の娯楽そのものだった。いまでもカラオケでは、この時代の歌は人気があるんじゃないのかな。
その歌謡曲が、テレビやラジオの表舞台からフェイドアウトしたのは、いつの頃からだったろうか。筆者のボケかけた記憶の中では、1989年暮れのレコード大賞を、Winkという女の子のデュオが受賞したときが、ひとつの分水嶺だったような気がする。なにしろ彼女らのその年の受賞曲「淋しい熱帯魚」を、筆者はそれまで一度も耳にしたことがなかったのだから。そんなことは初めてだった。あれ以来、歌謡曲は国民の娯楽の王座から滑り落ち、元の椅子に戻れないでいるんじゃないか、と勝手に思っているのだが…。
まあ以上は推論だが、こうした歌謡曲の衰退と入れ替わるように台頭して来たのが、J-POPという奴。筆者などは未だに、この言葉の意味や概念がよく分からない。分かりたいとも思わないけどね。ただ、分かるのはJ-POPの隆盛とともに、日本のポピュラー音楽の嗜好が世代間でくっきり区分けされてしまったこと。そして老若男女の誰もが口ずさめる日本的でメロディアスなヒット曲が、この国からすっかり姿を消してしまったこと。
つまり、いくらMr.ChildrenやEXILEの歌がヒットしたところで、それは若者とほんの一部の世代のもの。それ以外の世代は、ハナから切り捨てられているのだ。とりわけ歌謡曲とともに生きて来た世代には、もはや歌いたい歌さえ見付からなくなってしまった。この喪失感は大きいし、捨てられたことへの恨みも深い。筆者などにしてみればJ-POPの作り手たちに、「別にどこかの植民地でもないのに、なんで曲のタイトルが英語ばかりなの?」と、聞いてみたくもなる。といって彼ら別段、英語圏の世界で勝負しようとしているようにも見えないしね。
こうして日本の音楽業界が捨て去り、大衆の前からフェイドアウトしてしまった歌謡曲が、いま雌伏の時代を経て多くの外国人に再評価されている。皮肉といえば皮肉な話だが、ここは筆者も素直に喜びたい。歌謡曲世代としては、見ろ!やっぱり良いものは良いのだ、と声を大にして言いたいのだ。
この気分はたぶん、廃仏毀釈で打ち捨てられた仏像が、海外の美術館の展示ケースで、立派に甦ったときのようなもの。あるいはまた、浮世絵や寿司やマンガ・アニメを外国人が絶賛するときに感じる、日本人のあのどこか後ろめたさを含んだ、奇妙な幸福感と似ているのかも知れないな。自分たちが創造したものの価値に気が付かないのは、おそらく何千年もの間、もっぱら国内完結の文化を育んで来た島国人間の習性なのだろう。だが結果的にそれが、日本オリジナルの優良コンテンツを生んだというわけ。
そんなわけで筆者が密かに期待するのは、やはり歌謡曲の復興だ。何度も言うようだが、あの時代の歌謡曲はまさに名曲の宝庫。ピンク・マルティーニのコンサートで由紀さおりが歌った「タ・ヤ・タン」など、ホロリとするようないい曲だが、こんな名曲がかつて彼女のシングルのB面に収録されていたなんて、まるで知らなかったものな。温故知新じゃないけれどわが国の音楽業界には、あの頃の名曲をもう一度見直すとともに、新しい歌謡曲の創造というのをぜひやって欲しいね。
ちなみに、YouTubeの書き込みなどを読むと、「歌謡曲」と「演歌」を混同している連中がいるようだが、これは間違い。歌謡曲というのは一般に、歌詞のついた和製ポピュラー音楽の総称で、ロックやフォークなどの洋楽系から、浪曲や民謡などの邦楽系まで、何でもありの幅広い音楽なのだ。演歌はその中でも特に、泥臭く日本人の情愛や郷愁などを歌う1ジャンルで、歌詞は七五調、メロディは日本古来のヨナ抜き音階で歌われることが多い。北島サブちゃんや鳥羽一郎、天童よしみなどのコブシの利いた歌を思い浮かべれば、演歌を理解してもらえるはずだ。
童謡からスタートし、和もの洋もの何でもイケる由紀さおりは、また唱歌やクラシックも歌いこなせる万能実力派歌手。今回のヒットを機会に、日本でもぜひ再ブレークして欲しいと思う。
2011年11月16日
訛りは国の手形

東宝映画の怪獣ものといえば、まず思い浮かぶのが「ゴジラ」。1954年封切りの特撮映画から生まれた最強の主役であり、その名は今や遠く海外にも轟く不滅のスターだ。“ゲテモノ映画”などという偏見をはね返し、当時の大ヒットを記録したこのモノクロ作品は、いま観ても名作の名に恥じない目映い輝きを放っている。筆者のお気に入りの映画の一つでもあるんだよね。
で、その映画の重要な場面に登場するのが、荒れ狂うゴジラを倒すための人類の最終兵器、その名は「オキシジェン・デストロイヤー(Oxygen Destroyer)」。水中の酸素を破壊し、その場にいる生物を一瞬のうちに滅亡させ、さらには完全に液化してしまうという、恐ろしい兵器だ。発明者の芹沢博士がこの小型装置を抱いて、ゴジラが潜む海底深くへと潜行するラストシーンでは、筆者のみならず誰もが思わず手に汗を握ったに違いない。いや、あれは怖かった。
ところでちょっと気になるのが、この「オキシジェン・デストロイヤー」という名前だ。実はこれ、佐賀県人である筆者を、思わずニヤリとさせる響きを持っている。どこがって? それはもちろん「オキシジェン」の部分。そうなんだなあ。もともと「セ」を「シェ」と発音する癖のある佐賀県人は、「ジェン」にどこか懐かしくもくすぐったい響きを感じ取ってしまうのだ。
たとえば「全然」は「ジェンジェン」であり、「午前中」は「ゴジェンチュー」、「大自然」は「ダイシジェン」と発音してしまうのが、ネイティブ佐賀人の特徴。なので「オキシジェン」と聞くと、つい「隠岐の自然」を連想してしまうのが、我々の悲しい習性というわけ…そんなこたないか。ともかく、佐賀から学業のため東京に出た若き日の筆者が、最初に直面したのがこの「シェ」の矯正であり、「先生」を正しく「センセイ」と発音することだった。間違えると笑われるもんね。
もっともこの矯正はそれほど難しくはなく、コツさえ掴めば佐賀の田舎者もすぐに「セ」が言えるようになる。そればかりか、訛りがあるのは田舎者ばかりではなく、代々の江戸っ子を自慢する東京生まれの連中にも、意外な弱点があるのを発見したりする。彼らは「ヒ」と「シ」の発音が、どうもうまく区別できないらしいのだ。
学生時代に同じクラスだったM君がそうで、彼の発音によれば「表紙」は「ショウヒ」となり、「潮干狩り」は「ヒヨシガリ」になってしまう。「じゃあ表彰状は?」とこちらが聞くと、彼はいかにも言い難そうに「ショウヒョウジョウ」と答え、「あんまり苛めないでよ」と笑っていた。話には聞いていたが、どうやら本当に江戸っ子はこれが苦手らしいのだ。言葉の訛りにコンプレックスを抱いていた筆者が、なんだ東京の人間も同じじゃん、とそのときは妙に安心したのを覚えている。
田舎者ばかりが集まる東京では、佐賀人などよりはるかに訛りのひどい他県出身者が、ゴマンといるのを知ったのは、筆者が社会人になってからだった。特に東北地方の人はこれが抜けないようで、宮城県生まれの友人のグラフィックデザイナーなどは、普段の会話はそれほど変ではないものの、大事な業界用語の「キャッチコピー」がうまく言えず、いつも会議の席などでは「チャッチコピー」を連発していたものだ。またそういえば、青森県生まれの建築士の友人が言う「エレベーター」は、何度聞いても「イレベーター」になっていたなあ。これって、もう直らないんだろうねきっと。
ただし訛りでいちばん驚いたのは以前、筆者が兵庫県のある小さな市に仕事で出張したときだったかな。その町に出来る小ぢんまりしたミュージアムの展示設計が筆者の仕事だったのだが、打合せを担当したのがたぶん同世代らしい地元の学芸員。この人、穏やかな学者肌の真面目そうなタイプで、話す言葉ももの柔らかな関西弁。ところがときどきその発音が、急にヤクザっぽく豹変するところが面白かった、というかビックリしたな。
それは何処かというと、「ゼ」を「デ」と発音するところ。どうやら土地の訛りらしいのだが、彼が喋ると「全体的」は「デンタイテキ」になり、「絶対」は「デッタイ」になってしまうのだ。よそ者の筆者にはこれが、舌足らずの可愛い幼児語のようにも聞こえ、また関西ヤクザの恫喝のようにも聞こえたというわけ。まあ、真面目そうな学芸員にいきなりこんな喋り方をされると、誰だって内心、悪気はないけどちょっと笑ってしまうよね。いや、スイマセン。
さてそんなことを考えながら、現代佐賀の若者の言葉を注意して聞いてみると、例の「シェ」音があまり響いて来ないことに驚く。佐賀弁は佐賀弁なのだが、彼らの「セ」の発音は、案外きれいな「セ」になっているのだ。いったいどうして? これでは「オキシジェン・デストロイヤー」も不発弾となり、ゴジラだって無事成仏できないだろうに──。
思うに、これはテレビの影響なのだろう。今の若者らが物心ついた時代は、まだ家庭の娯楽の中心はテレビだったはず。彼らはおそらくアニメにドラマにバラエティと、東京などで作られた幼児向け番組の洗礼をシャワーのように浴びて育ち、自然と「セ」の正しい発音法を身につけて行ったのに違いない。そういえば「◯◯戦隊」とか「△△戦士」とか、幼児向け番組には「セ」の入る言葉がやたらと多いものな。両親や祖父母から口移しで「シェンメンキ」などと教え込まれた、筆者のような旧世代の人間たちとは明らかに育ち方が違うのだ。
では佐賀人の「シェ」はもはや滅びる運命かというと、どっこいそれはまだ分からない。すでにテレビが家庭内での求心力を失い始めた今、その影響力もこれから先どうなることやら。案外しぶとく生き残った「シェ」が、農村部などから燎原の火のようにジワジワと息を吹き返し、やがて再び全世代に渡り復活することだってあるかも知れない。だが、そのためにはまず孫がジイちゃんバアちゃんと一緒に住む、三世代同居から始める必要があるだろうな。「シェ代の復讐」という奴だ。
2011年10月22日
いまこそアニメの殿堂を

先日、インターネットでニュース(共同通信)を調べていたら、こんな記事を見つけてちょっと驚いた。中国が2013年までに、自国アニメの歴史をまとめた「中国動漫(アニメ)博物館」を、浙江省杭州市に建設する計画だというのだ。いつかどこかで聞いたような話だが、これが実現するかどうかは置いといて、かの国もいよいよそんなものを計画する時代になったのかと、筆者は少し複雑な気分になった。
記事によれば中国では、それまで人気の高かった日本製などの海外アニメの影響が強まることに焦燥感を抱き、2006年9月にそうした海外アニメをゴールデンタイムに放映することを禁止したのだという。代わりにその後、国を挙げてアニメ産業を育成した結果、中国メディアによれば2010年にアニメの制作本数は世界一になり、今月23日からは東京で「中国アニメ・フェスティバル」を開催して、中国アニメを紹介するのだとか。国策による輸出攻勢という奴だが、しかし考えようによってはこれ、どこか不気味といえば不気味な話ではある。
まあ、現在の日本が世界のマンガ・アニメ大国だというのは、筆者だって知っている。マンガは今や「MANGA」となり、海外の若者の心をしっかり捉えているというし、宮崎駿や押井守などが監督したアニメ作品は、高い人気と評価を得ている。他にも優れた作家を上げれば枚挙にいとまがない。何といってもわが国のマンガ・アニメの海外市場は、キャラクター商品なども含めれば1兆円近いというから驚きだ。つまりマンガ・アニメはどうやら、日本の隠れた巨大輸出産業らしいのだ。
こんなことをいうと、なあに所詮はサブカルチャーだし、そんなものを輸出するのは日本の恥だ、とか何とかいうお偉い先生もいるはずだ。むろん中には、ガイジンに見せたくないレベルのものだってあるだろう。だが、かつて輸出用の有田焼の包み紙として海を渡った浮世絵が、パリの画商や画家たちを驚かせ、いまや日本を代表する美術品として世界で評価されていることを思えば、誰もわが国のマンガ・アニメを一概に否定することは出来ないよね。だいいち自動車や電子機器のようなハードはいいが、アニメや映画、ゲームなどのコンテンツの輸出はダメというのは、ちょっと理屈に合わない話だ。
もっとも、こうした日本のマンガ・アニメの天下が、永遠に続くという保証はどこにもない。「おごれる人も久しからず 」と、平家物語も言っている。今のうちはクオリティの高さで他国の先を行く日本だが、油断をすればいつか足元をすくわれ、気が付けば二番手、三番手のランナーになっていた、ということだって十分に考えられる。なにもマンガ・アニメ作りは、日本人だけに与えられた特権ではないのだし、いくら人件費が安いからといって作画作業を外国に委託していたら、いつか技術を盗まれ国内の空洞化をまねき、やがては後継者が育たなくなる危険性だってあるのだ。
なによりわが国のすぐ隣には、著作権無視を得意技とする中国や、何かと言えば日本を標的にしライバル視する韓国がいる。近年、盛況をきわめるパリのJapan-Expoは日本のポップカルチャーなどを紹介するイベントだが、ここでは過去、韓国人マンガ家がゴリ押しの形で多数登場し物議をかもしたし、昨年は韓国ブースも作られている。中国の攻勢も冒頭に書いた通りだ。これらの国が政府の後押しでマンガ・アニメの制作や輸出に力を入れ始めた現在、もはや日本が安穏としていられるはずはないんだけどなあ。
それにつけても思い出すのが、2009年に発表された「国立メディア芸術総合センター」だ。ときの総理大臣・麻生さんの肝いりで構想された通称「アニメの殿堂」という奴で、本来ならメディアアートや映画、アニメ、マンガ、ゲームなど様々なメディア芸術作品を、収集・保存するはずの施設だった。それだけではなく、人材育成や情報発信など多種多様な機能も備えるはずだったらしい。
この計画はあのルーピー鳩山に、国会で「国営マンガ喫茶」などとさんざんに揶揄され批判されて、結局は潰されてしまったが、筆者はほんとうに惜しかったと思う。やっぱりこれは造るべきだったと、いまでも残念でならない。ムダな箱モノは不要だというのが当時の多くのマスコミの論調だったけど、はたしてこれは本当に不要なものなのかどうか、もう一度考えてみても良いんじゃなかろうか。なにも巨費を投じて入れ物を新築しなくとも、「私のしごと館」のような閉館した箱モノを再利用すればいい話だし。
また制作者の中には、国がマンガ・アニメ作りに口を出すべきではないと反対する人もいるが、口を出すのではなくバックアップする施設と考えればいいんじゃないのかね。おそらくこれから日本のマンガ・アニメは、ますます国際競争の嵐にさらされるはず。そこではさまざまな摩擦が起きるだろうが、何より重要なのが著作権やデザインなど知的財産権の保護だ。どこかの国が国ぐるみでパクったり訴訟などを仕掛けて来た場合、個人のマンガ家や弱小プロダクションでは、とても太刀打ちは出来ないだろう。そんなとき、バックアップしてくれる国の施設があれば、制作者だって心強いはずなのだが。
わが国のマンガ・アニメの盛況は、日本人の創造力と妥協を許さぬ職人魂のたまものなのだろう。かつてヨーロッパ人が浮世絵の美に驚嘆し争ってそれを求めたように、世界の人々はいま日本のマンガ・アニメを必要としているのかも知れない。これは、磨かれた日本文化そのものの輸出なのだ。だいいち資源小国の日本には、原材料の輸入に頼らないコンテンツ産業こそ、最強最良の輸出品だと思うんだけどね。
2011年10月10日
『はやぶさ』を観て来た

(C) 宇宙航空研究開発機構(JAXA)
昨年6月に、小惑星の微粒子のサンプル採集という大役を果たし、7年ぶりに地球に帰って来た探査機「はやぶさ」。オーストラリア・ウーメラ砂漠の夜空に燃え尽きた最後の輝きは、多くの日本人の感涙を誘ったんじゃないだろうか。何といっても、あのNASAさえ成し遂げていない快挙。筆者も当時、ネットでの映像を見ながら涙した一人だったが、その「はやぶさ」の帰還までの物語が映画化されたので、さっそく観て来た。
映画の正式なタイトルは『はやぶさ/HAYABUSA』。物語の主人公は、宇宙科学研究所の女性スタッフ水沢恵(竹内結子)だ。彼女の研究者としての成長を中心に、同研究所のスタッフと西田敏行扮する上司(モデルは的川泰宣氏)、佐野史郎のプロジェクトマネージャー(ハマり役。モデルは川口淳一郎氏)らが関わった、探査機「はやぶさ」の打上げからサンプル回収にいたる7年間の苦闘が描かれている。
西田敏行があまり科学者に見えないのはまあ仕方ないが、ロケはJAXA(宇宙航空研究開発機構)の全面協力で実際の現場などが使われ、研究所のスタッフを演じる俳優たちもみな理工系らしい顔つきで、総じて監督がこの映画に求めたリアル感はよく出ている。また、宇宙空間での「はやぶさ」を描いたCGもよく出来ていて、まるで本物かと思うくらいだ。ちなみに監督は、あの『20世紀少年』をヒットさせた堤幸彦。
リアル感はストーリーの中にも随所に散りばめられており、ロケット打ち上げの折りの地元漁協との交渉や、文部科学省の官僚との予算調整、また長いプロジェクトの途中で亡くなったり、職場を去らざるを得ないスタッフの姿なども、丁寧に描かれている。つまり科学ものなのに、けっこう人間臭いドラマなのだ。主人公の竹内結子は、亡くなった兄の遺志を継いで宇宙科学の研究者を目指す役どころ。ちょっとコミカルな演技で、湿っぽくなりがちな設定の人物を明るく演じていたが、筆者にはときどきそんな彼女の表情がなぜか松たか子と重なって見えた。
竹内結子は擬人化された「はやぶさ」の声も演じていたが、そんな「はやぶさ」が最後に地球の大気圏に突入し燃え尽きるシーンでは、けっこう周りの席で鼻水をすする音が聞こえた。擬人化作戦成功といったところだが、ウェットな日本人はこういうのに弱いんだよね。長い放浪の旅から帰って来たヤクザな息子が、土産の金子(きんす)を親の手に渡したとたんに息絶えた、そんな人情映画みたいな感じかな。「おっかさん、いま帰りやしたぜ…」なんてね(ちょっと違うかな?)。とにかく、筆者も不覚にも涙してしまったよ。
そんなわけでこの作品、人間ドラマとしてうまくまとまっており、家族連れで観るには相応しい優良映画と言えるんじゃなかろうか。その中で「はやぶさ」が遭遇した数々の危機や、そこからの奇跡的な脱出法、さらにはその帰還についての科学的な意義なども、分かり易く解説してある。さらには、日本の打ち上げた人工衛星の歴史まで学べるとあっては、もう堤監督のサービス精神に脱帽するしかない。
だが褒めてばかりでは面白くないので、敢えてケチをつけるとすればこの映画、ちょっと盛り込み過ぎという感じがしないでもない。つまり、欲張り過ぎって奴。ひたむきな主人公の成長や仲間たちとの友情ドラマは分かるとして、相対的に「はやぶさ」の小惑星からのサンプルリターンという偉業の描き方が、わりとアッサリしている印象をどうしても受けてしまうのだ。本当はそこのところが、いちばん感動的で奇跡的でスゴいはずなのに。
筆者の個人的な希望をいえば、やはりこれはドキュメンタリー映画にして欲しかった。打上げや帰還時の記録映像、関係者へのインタビュー、宇宙で活動する「はやぶさ」のCG動画──、それらの組合せの上に上質なナレーションが加わり、さらにR.シュトラウス風の壮大な音楽が重なれば、もう絶対に最高の映画が出来たはずなのだ。何といっても「はやぶさ」のミッション完遂までには、日本の科学技術の底力や、それに携わったスタッフたちの血の出るような努力と執念、信じられないような奇跡の数々といったものの積み重ねがあったはず。それこそが本物のドラマであり、そこのところを重点的に描いて欲しかった、と筆者は思うのだがねえ…。
などと嘆いていた筆者だが、調べてみたらなんとすでにそんな映画が完成して、すでに公開されていたらしいので驚いた。角川映画『はやぶさ HAYABUSA BACK TO THE EARTH』がそれだ。今年の5月14日から全国公開されていたようだが、迂闊にも筆者は知らなかったんだよね。で、慌ててYouTubeで検索してみたところ、すでに予告編がアップされているじゃないか。これだ!と思ったが、さて佐賀でこの映画、すでに公開されたのだろうか? それとも、これから公開される予定があるのだろうか? だれか知っている人がいたら、教えて頂戴!
2011年10月05日
プロレス再発見

近頃、テレビの番組でK-1やPRIDEといった格闘技の試合を見なくなって久しい。かつてあれほど盛り上がったK-1も、スター選手の枯渇や主催会社の経営難などでテレビ局が離れ、PRIDEにいたっては2007年に消滅している。もともと格闘技好きの筆者のような人間にとり、これはちょっと寂しい話だ。お陰で、テレビを観ない時間が増えたのは良いけどね。
そんな先日、貸しビデオ屋の棚でたまたま見付けたのが1枚のDVD。「おお〜、これは!」。二人の男の古色蒼然たるモノクロ写真が並ぶ表紙カバーに、思わず筆者の手は迷わずそれを掴んでいた。タイトルは『ルー・テーズ対力道山/世界選手権争奪戦』。何とも懐かしい昭和のプロレスもの。それも、戦後間もないわが国のプロレス草創期に行われた、今となっては伝説のタイトルマッチじゃないか!
むろん筆者はこの試合、ニュース映像などでは何度も目にしていた。それはまた、当時のプロレス人気を語る好材料ともなっていた。ただし、それらの映像は試合全体のほんの断片。子供の頃からプロレスファンだった筆者も、さすがにこの試合の全容を観たことは一度もなかったのだ。何しろ時代が時代だし、こんな長尺もののフィルムが残されていたなんてことも、ついぞ知らなかったし…。そんなこんなで土曜日の深夜、震える指でリモコンの再生ボタンを押したのだった。
オープニングは、犬吠埼の岩に砕ける白波にお馴染みの三角マーク。おお、東映よありがとう──。感動のうちに画面は、夫人を同伴したルー・テーズの羽田への来日シーンへ。そして、大物政治家や芸能人が顔を揃えた歓迎レセプションに、オープンカーでの屋外パレード、居並ぶ群衆に舞う紙吹雪。すべてが豪華でいい雰囲気だ。まるで映画スターのプロモーションを見るようで、この時代のプロレスを包む空気がよく分かる。
試合が行われたのは昭和32年10月7日、会場は後楽園球場。ときの自民党副総裁、大野伴睦のコミッショナー宣言があり、若い顔をした森繁久彌がリング上で力道山に花束を渡す。親父ばかりの観衆はギッシリ満員で、いまの若者主体のプロレス会場とは、醸し出す熱気の種類が違うようだ。同じ場所でボクシングの白井義男が、ダド・マリノの世界フライ級タイトルに挑戦したときも、丁度こんな雰囲気だったのだろうか。
やがてレフェリーのダニー・プレチェスの合図で、NWA世界ヘビー級タイトルマッチ61分3本勝負のゴングが鳴った。しずしずとリング中央に歩み寄る両雄。うーん、何かドキドキするなあ。王者テーズのスラリと均整のとれた全身、ズングリ型の挑戦者、力道山のはち切れそうな上半身。ともに見事な肉体だ。
意外だったのは、試合の攻防の主体がグランドレスリングだったことだろうか。アマレスの基礎のあるテーズに対し、相撲出身の力道山が堂々と寝技で渡り合い、アームロックにはアームロックで、レッグロックにはレッグロックで対抗し、ときに鋭いタックルさえ見せたことに筆者はちょっと驚いた。中でも序盤さんざん苦しめられたキーロックで、逆にテーズを追い込む終盤の場面は、もう見どころ十分だったね。立ち技が得意と思われがちな力道山だが、この人、かなり努力をしてレスリングを修得したんだろうなあ。
だが、この試合のハイライトはやっぱり立ち技だった。白眉は得意の必殺技、バックドロップ(岩石落とし)を見舞おうとするテーズを、力道山が相撲の河津掛けで必死に防ぐ場面だろう。相手を持ち上げようと踏ん張るテーズの右脚に、リキさんの左脚が内側からガッチリ絡み付き、両者微動だにしない。この攻防が実に素晴らしい。グレコローマン式投げ技には、日本古来の相撲技で対抗という、涙の出そうな展開に観客の興奮も最高潮だ。
それでもこの試合を終始リードしていたのは、やはりチャンピオンのテーズだっただろう。序盤からたびたび力道山の額に反則パンチを見舞い、相手が反撃しようとするとロープに逃げる。この繰り返しが憎らしい。焦らし作戦という奴だ。とうとう怒った力道山が空手チョップを繰り出し、ロープの反動を利用した飛行機投げで大きく相手を吹っ飛ばす。深いダメージを食らったように見えるテーズだが、それでも3カウントのフォールは許さない──。このあたりの受け方が、またうまいんだなあ。
他所からやって来たヒールのチャンピオンが、地元のベビーフェイスの挑戦者にタジタジとなりながらも、最後はかろうじて逃げ切るという試合パターンは、NWAの世界ベルトを巻いた者の得意技なのだろうが、この頃のテーズのそれはもはや名人芸。この試合で若い力道山をリードし、レフェリーをリードし、観衆の心をもリードするルー・テーズは、まさに王者に相応しい風格を見せつけていた。試合は結局、ノーフォールのまま時間切れドローだったが、観客は両者の健闘に惜しみない拍手を送っていた。
まあ、現代のプロレスファンの目から見れば、これはひどく地味な試合なのだろう。大技の連発もなければ、飛んだり跳ねたりもなく、倒れた相手へのキックさえないのだから。ましてマイクパフォーマンスなど望むべくもない。そこにあるのはただ、二人の男の無言の取っ組み合いであり、ひたむきな技と力の比べ合いなのだ。きわめてシンプルだが、「序破急」はちゃんと用意されている──。だがそんな古くささが逆に、新鮮で魅力的に筆者にはうつった。
この試合からすでに半世紀以上の時間が流れ、いまや日本のプロレス界も大きな曲がり角に立っている。あれからいったい何が変わり、何が残ったのだろうか。力道山もテーズもすでにこの世を去ってしまったが、この試合は忘れていたプロレスの素晴らしさを、改めて筆者に思い出させてくれたような気がするなあ。
2011年09月19日
重苦しい宗教画

やっぱりたまに映画を観に行くときは、事前にちょっとしたリサーチが必要だと、あらためて感じてしまったね。何のことかというと、先日ふらりと入ったシネコンで適当に選んだプログラム、アメリカ映画『ツリー・オブ・ライフ』(監督:テレンス・マリック)のこと。後悔先に立たずというか、何というか。今年度のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した作品らしいが、筆者的には観るんじゃなかったという感じだったなあ。まあ飽くまでも、個人的な好き嫌いで言えばの話だが。
ストーリーを説明するのはちょっと難しい。あえて大雑把に言えば、実業家として成功したジャック(ショーン・ペン)が人生の喪失感を味わい、自分の少年時代の家族生活を回想するというプロット。その舞台はテキサスの田舎町だ。厳格過ぎる父(ブラッド・ピット)と慈愛に満ちた母との間で、3人兄弟の長男として成長したジャックだったが、心のうちに父への憎しみや世の中への言い知れぬ反抗心を徐々に募らせて行く。そのアブナイ少年の成長過程と、父との和解までの物語が、淡々と丁寧に描かれている。
だがこの映画の特色は、そうしたよくありがちな家族の物語のこまごまとした情景描写に加え、まるで宗教画を思わせる暗喩に富んだ様々なシーンが、各所に挿入されているところ。例えば『2001年宇宙の旅』のラストに似た、地球の誕生期を思わせるシーンとか、『ジュラシックパーク』かと錯覚するような、太古の恐竜の登場シーン。また、成人したジャックが彷徨する幻想的な岩だらけの地帯は、まるで聖書にいう「死の陰の谷」のようでもある。つまり、全てがどこか神秘的。
加えて、全編を覆う重苦しい会話やモノローグに、スメタナの『モルダウ』のような物悲しい音楽が次々と重なり、現れては消える。よけいな笑いなどは一切必要なしというスタイルで、生真面目と言えば生真面目。そう、言ってしまえばこれは聖書的なレトリックに満ちた、138分の長大な“懺悔物語”なのだ。
生命、人生、家族、愛──まあ、この映画の訴え掛けたいことは、俗人の筆者にも何となく分かる。どの場面の映像も美しく、構成にもムダがないし、ジェシカ・チャステインが演じた母親はまさに聖母そのものだ。たぶんキリスト教徒の多い欧米ではこの映画、高い評価を得たんじゃないだろうか。彼らにとって、内容的には文句の付けようのない、聖なる家族物語なのだから。
だが筆者が辟易したのは、その内容というより表現方法だ。ここまでやるかと言う感じ。ハッキリ言えば、あまりにもベタ過ぎるのだ。まるで全編、牧師さんのお説教を聞かされているようで、見終わった後には心に暗い疲労感だけが残り、筆者はちょっと頭が痛くなったね。というか後半は、早く終らないかなとひたすら願っていた。キリスト教徒でもない人間にとって、聖書の教えをこれでもかと聞かされるのは、苦痛以外の何ものでもないのだ。
そういえばこの感じ、以前どこかで味わったと思ったら、思い出したのが東京上野にある国立西洋美術館。ル・コルビュジェの設計で知られるこの美術館に、筆者は何度か入ったことがあるが、ここの常設展を観たときの印象がやはりそうだったなあ。つまり、心に暗い疲労感が残るというか何というか(美術館の人、スイマセン)…。
この館の常設展は、14世紀から20世紀初頭にかけての西洋絵画が、時系列に沿って展示してあるのが特色だ。観覧者は絵を観賞しながら、自然に西洋画の歴史をたどることが出来るというわけ。なので当然ながら、初めの方はキリスト教の宗教画が多くなる。時代を下るにつれ少しずつ肖像画や風景画なども増えて来るのだが、それでもやはり宗教をテーマにした絵は多い。
で、何が苦手かといって筆者は、この宗教画の持つ押し付けがましさと説教臭さがイヤなのだ。1枚や2枚ならまだ良い。だが、大小のそうした重苦しい絵がこれでもかと並ぶと、さすがに観る方もウンザリして来る。おまけに、全体として暗い色調の絵が多く、もう気分は陰々滅々。しまいにはグッタリと心が萎えてしまい、観る度に暗い疲労感に襲われるというわけだ。
救いは『印象派』の部屋に入ったところで、室内の雰囲気が急にパァッと明るくなり、絵に自由さと色彩感があふれ出し、この重い気分から解放されること(たぶん誰もが)。だが、それにしてもそこまでの道中が長いのだよね。いやあ疲れる。むろん筆者が北斎や写楽、広重など、わが国の師匠連に感謝したのは言うまでもない。
『ツリー・オブ・ライフ』は、完成度の高い優れた映画だと思う。ラストには、救われる感動的なシーンも用意されている。ただし観る側の人生観、民族、宗教などにより、その評価は大きく分かれるんじゃないのかな。世俗に生きる筆者のような人間にとっては、長く辛いお説教の時間だったというわけだ。
2011年09月09日
日テレのサッカー中継に注文!

サッカー(男子)のブラジルW杯アジア3次予選が、いよいよ始まった。日本が順当に最終予選まで勝ち進めば、2013年の6月まで続くという、3年越しの長い戦いの始まりだ。もしもこの最終予選でブラジルへの切符を掴み損なった場合は、同年11月の大陸間プレーオフまで泥沼の死闘が続くことになる。サッカーファンの筆者には、ワクワクドキドキするようなドラマの幕開けだ。
で、早速行われた2連戦がホームの北朝鮮戦(9月2日)と、アウェーのウズベキスタン戦(同6日)。むろん筆者は、2戦ともテレビにかじり付くようにして観たわけだが、どちらも接戦で最後まで予断を許さぬ緊迫した試合だった。日本の楽勝を期待していただけにこれは、ちょっと意外な感じがしないでもなかったなあ。
1戦目の北朝鮮との試合は、あわやスコアレスドローかと思われた後半ロスタイムに、コーナキックから吉田麻也の突き刺すようなヘッドで1−0の劇的勝利。2戦目は筆者の思い出の地タシケントで行われたが、日本は相手に先制された上、ドリブルで何度も自陣深くまで切り崩される始末。ようやく後半に岡崎慎司のダイビングヘッドで追いついたものの、適地で何とか1−1のドローに持ち込んだという試合だった。アジアチャンピオンの日本とはいえ、やはり本田圭佑と長友佑都という飛車角抜きでは、戦力が大きくダウンしてしまうようだ。また、珍しくザックの采配に迷いが見られ、香川真司の不調も少し気になったね。
ところでこの2試合は、地上波では日本テレビが中継放送していたが、同時にNHK-BS1でもやっていた。どちらも同じ映像を観られたわけだが、筆者が選んだのはもちろんNHK-BSの方。筆者はふだん、サッカーの中継放送が民放とNHK-BSで被った場合、迷わず後者を選ぶようにしている。理由は簡単で、両者の実況の質にはハッキリした差があるからだ。まあNHKにはしぶしぶ受信料を払っているので、観なけりゃ損損という裏事情もあるのだが…。
ただし、アナウンサーの声が良いとか喋りがうまいとか、そういう話じゃあない。声質だけで比べるなら、NHKよりは日テレの方が美声の持主が多いし、喋りの技術だって遜色はない。何が違うかと言えば、“サッカーの伝え方”が違うのだ。NHKのアナウンサーの優れているところは、とにかく目の前の攻防の面白さを丁寧にナマで伝えるという、この基本をしっかりと守っていることだろう。
中でも筆者のお気に入りは、同局の野地俊二アナウンサーだ。この人の場合、選手の名前、ボールの動き、選手の動き──すべてを静かにシンプルに伝えるのみ。余計なおしゃべりはしないのが信条なのだ。視聴者は画面の動きを目で追いながら、その声に心地好く身を委ねれば良い。で、ときおり深く洞察に富んだ質問を解説者に投げ掛けながら、ゴール前の緊迫した場面が来ると一気に声に熱を込める。この緩急が実にうまいんだなあ。おかげでこちらはテレビの前に居ながら、試合場と同じような興奮を味わうことができるってわけ。
NHKの解説陣も、自分の職分をよくわきまえていて好感が持てる。ダジャレが得意技の早野宏史氏にしても、今年から解説者に加わった往年のゴルゴ13、長谷川健太氏にしても、けっこう口達者なタイプなのだが、自制が利いていて試合中の無駄なお喋りなどは控えている。たとえ自分が話しているときでも、ボールがゴール前に移るとすぐに鉾を収め、後はアナウンサーに任せるようにしている。そこが良い。何といっても、ゴール前の攻防を伝えるのはアナウンサーの仕事であり、彼らのいちばんの腕の見せ所なのだから。解説者はあくまでもサブの存在で良いのだ。
これと全く逆のやり方をしているのが、日本テレビだ。先にも述べたように、この局のアナウンサーの質は概して高い。だが、ことサッカー中継となるとガッカリだ。むかしから、民放の中ではサッカーに理解の深いテレビ局なのに、これは本当に勿体ないと思う。では何がダメかというと、とにかく聴いていてストレスが溜まるのだ。つまりひとくちで言えば、アナウンサーも解説者もムダに喋りすぎるのが難点。これに尽きる。
いちばんイライラするのは、アナウンサーが目の前の試合の動きに即応しようとしないことだ。誰がボールを持ち、どう動き、どんなプレーをしようとしているのか、まずこれを伝えるのが仕事のはずなのに彼らの優先順位はそうではない。試合の動きはそっちのけで何より力を込めるのが、選手やチームなどに関する副次情報を得々と紹介すること。誰が何年何月生まれで、チーム誕生の由来がこうで──。こんなサブストーリーが間断なく語られる。その間、攻守はどんどん入れ替わっているのに、目の前の選手の名前やプレーにもお構いなしだ。おいおい、試合の方はどうなってんだよ──。お陰で、視聴者はなかなか試合に感情移入をすることが出来ず、イライラをつのらせることになる。
もっとも、日テレのアナウンサーがよく取材をしていることは筆者も認める。前に読んだ同局の元アナウンサー、倉持隆夫氏の著書『マイクは死んでも離さない』の中には、こんな話が出て来たものだ。氏がまだ若手修業時代だった頃、スポーツ中継の花形はプロ野球のジャイアンツ戦の実況と決まっていた。そこで宮崎キャンプに取材に出掛けた倉持氏は、先輩の越智アナウンサーにこうアドバイスを受ける。曰く「スポーツアナは、足で稼げ」と。自分の足を使って得た情報を、自分の言葉で表現することが、実況では何より重要なのだと、先輩はそう教えてくれたのだ。
どう言うことかというと、野球というスポーツはテンポが遅く、選手の交代などに空いた時間ができる。つまりやたらと「間」が多いのだ。こうした「間」を埋めるのがアナウンサーの仕事であり力量とされ、そのために普段から足で集めた情報を蓄積しておかねばならないのだという。なるほどやっぱり──と、筆者はそのとき思ったね。日テレのスポーツアナが、押し並べてこうした副次情報の紹介に力を注ぐのも、先輩から教えられたこのプロ野球式実況スタイルが、伝統として受け継がれ、自然と身に付いているからなのだろう。だが、このスタイルをテンポの速いサッカー中継に持ち込むのは、やはりミスマッチと言う他はない。
もうひとつ気になるのが、解説者の位置付けだ。日テレのサッカー解説と言えば、都並敏史氏と北澤豪氏というヴェルディOBが二枚看板だが、二人とも頭の回転が速いのは良いとして、少し饒舌過ぎるのがやはり気になるなあ。特に都並氏の、ときに解説者の職分を逸脱したような出しゃばり方は、筆者にはカチンと来る。NHKと違い日テレの場合は、アナウンサーと解説者がお喋りを楽しみながら進行するというスタイルをとっているが、そのぶんやや緊張感が希薄で、ときにメインとサブのMCとしての役割分担が曖昧になり、大事な場面で解説者の方が大きな声を出して、アナウンサーの実況の邪魔をしたりすることもある。
例えばゴールシーンで、アナウンサーがこの時とばかり実況している横で、「入った〜〜〜!」とか「よっしゃ〜〜〜!」とか「うほほ〜〜〜〜!」とか、おちゃらけたような大声を被せるのは、ちょっとヒドいんじゃないの。そこはアナウンサーの職域であり、試合の中でも数少ない見せ場なのだから、解説者は一歩引くべきなのだ。解説者は飽くまで解説者であり、アナウンサーのお喋り相手でもなく、またふつうの観客でもないはず。だいいちゴールシーンなどは映像資料として、以後、繰り返し放送される可能性もあるわけで、それをぶち壊すような真似はぜひやめて欲しい。
とまあ、勝手に日テレのサッカー中継にずいぶん注文をつけてしまったが、これは筆者が同局に期待をしているからでもある。何といっても日テレは、民放の中ではサッカー中継にいちばん熱意を見せている局なのだ。高校サッカーもあれば、日本代表の試合もあり、暮れにはクラブW杯も控えているもんね。だから日テレさん、一日も早くプロ野球式実況スタイルから抜け出して、新しいサッカー式実況スタイルを築き上げて頂戴──。そう願っているファンは、決して少なくないはずだ。
2011年07月31日
今どきのセミの声

今日も朝からセミの鳴き声が喧しい。この季節、佐賀平野はまさにセミの天国だ。「ジージー」と、壊れたブザーのように甲高く鳴き続けるニイニイゼミ。「ジリジリ」と、いたる所で忙しない声を上げるのがアブラゼミ。「シャアシャア」とうるさいのは、大音量スピーカーを持つクマゼミだ。これらの混声合唱が昼夜を分たず歌い続けるいま、佐賀平野は一年中でいちばん賑やかな季節を迎えている。
筆者は子供のころセミ捕りが大好きで、夏休みになるとたいてい近所の仲間と一緒に、朝から小城公園などでセミを追っていた。細い竹竿の先に蝿取り紙のネバネバを塗り付けて、それで目指すセミをからめ捕るのが何より面白かった。トンボを捕るのも同じ手法なのだが、筆者的にはセミの方がずっと面白かったな。だいいちトンボは捕まえても鳴かないが、セミはネバネバに掛かった瞬間、「ジジジー」と悲し気な声を上げて鳴く。これが快感だった。やったぁ手応えあり、というわけだ。サドっ気の萌芽という奴だろうか?
セミ捕りの醍醐味は、そんな捕獲の瞬間のヨロコビにあったが、もう一つは木の幹に潜んだ獲物を探すところにもあった。声はすれども姿は見えず。何といっても彼らの体は、樹皮の色や模様にそっくりで見分け難いのだ。なので目指す獲物を見つけた瞬間は、小躍りするくらい嬉しかったのを覚えている。中でも大型で美しい透明の羽を持つクマゼミは、どの子供にとっても宝石のような存在だったんじゃないだろうか。
そんな少年時代を送ったせいか、大人になっても毎年7月になりセミが鳴き出すと、筆者は心が躍るのを体のどこかで感じていた。おお、いよいよ夏が始まったな、などと妙に力こぶを入れたりしたものだ。「三つ子の魂百まで」という奴なのだろうが、これはまた「馬鹿は死ななきゃ治らない」とも言うらしい。ともかく、セミは筆者にとって夏のカレンダーそのものだった。
少し驚いたのはその後、東京都内に住み始めた頃のこと。筆者が部屋を借りた墨田区の下町では、夏になってもセミの声がまるで聞こえないのだ。これにはちょっと参ったが、なにしろ周辺はビルやゴチャゴチャした低層住宅ばかり。街路樹や街角の小さな公園こそあるものの、さすがに緑あふれる環境とは言い難い。そこで同じ都内の神宮前に住む友人に電話をして、向こうの様子を尋ねてみると、なんとあちらではセミがよく鳴いているというではないか。こんなのありかよ、とそのときは思ったね。
筆者の不満が解消されたのは、住まいの近くの隅田公園を散歩したときだった。隅田川のそばにあるこの公園は桜の名所として知られ、ひょうたん池や牛島神社などもある下町のオアシス的な存在だ(アサヒのビヤホールも近い!)。夏のある日ここに初めて足を踏み入れた筆者は、緑の葉をいっぱいに茂らせた桜の木々の間から、「ジリジリ」という例のアブラゼミの鳴き声が聞こえて来たとき、ホッとしたのをよく覚えている。ああ、東京も同じなんだな、という喜びをそのときは感じたものだ。
だがその夏、何度かこの公園に足を運ぶうち、筆者はあることに気が付いた。むろん、セミの鳴き声についてだ。どこか厚みがないとでもいうのか、つまり故郷の小城公園の混声合唱とは明らかに違う、もの足りなさをそこに感じてしまったのだ。例えていうならばパートが足りない、あるいはメンバーの誰かが休んでいる、そんな感じだろうか…。とにかく隅田公園のセミの合唱には、決定的に何かが欠けていることに気が付いたのだ。
で、最近になってネットで調べてみたら、意外なことが分かった。なんと不思議なことにこの隅田公園には、ニイニイゼミもクマゼミもそしてミンミンゼミもおらず、アブラゼミしか生息していないのだという。あの合唱の声は、アブラゼミの独り舞台だったというわけだ。おお、そうだったのか。何かが足りないと筆者が感じたのも道理で、これでは男子校の校歌斉唱みたいで色気がない。ひょっとしてこれ、生物多様性の危機ってこと?
一方で、隅田川の対岸にある台東区側の隅田公園(川を挟んで同名の公園がある)では、4種類のセミが確認できたのだという。つまりどうやらここでは、川を隔ててセミの生息分布が大きく違うらしいのだ。ちょとした夏のミステリーとも言えそうな話だが、しかしそれほどの大河でもない隅田川の両岸で、いったいなぜこんな珍現象が起きたのだろうか?
実は研究者がこんな説を立てているそうだ。──ときは昭和20年3月10日、太平洋戦争さなかの東京。この墨田区一帯は、米軍のB29による絨毯爆撃で火の海となり、壊滅的な被害を受けた。一晩で約10万人の人が亡くなったという「東京大空襲」だ。焼夷弾で焦土と化したこの地域では、昆虫もほとんどが全滅し、地中にいたセミの幼虫もまた焼き尽くされた。
復興後、台東区側では西にある上野公園や東大キャンパスなどから、セミが徐々に繁殖範囲を広げたが、墨田区側では隅田川と周辺の宅地化により公園が隔離された形となり、彼らが移動できなかった可能性があるという。つまり陸の孤島化だ。で、雌雄ともに飛行距離が比較的長いアブラゼミだけが、焼け残った場所からこの公園へたどり着き、子孫を増やしたというわけ──。
そんな馬鹿なと思う人もいるだろうが、まあこれは飽くまでも仮説だ。ただし、墨田区暮らしの長かった筆者には、これはけっこう説得力のある話ではある。というのも筆者は、区内の横網町公園にある「復興記念館」や「すみだ郷土文化資料館」で、東京大空襲に関する展示を見たことがあり、多少なりとも被害の凄まじさを知っているからだ。
昭和20年3月10日のこの空襲は、まさに広島・長崎の原爆投下に匹敵するもの。その夜の墨田地区一帯は、間違いなくこの世の地獄だったのだ。違いがあるとすれば、広島・長崎が一瞬の熱線で焼かれたのに対し、こちらはジリジリと焼夷弾の油脂の炎に包まれたということだろうか。なので、地中にいたセミの幼虫さえ残らず焼き尽くされたというのは、実感としてよく分かる…。
何やら背筋がゾクッとする話になってしまったが、アブラゼミの声が隅田公園の悲しい過去を物語っているとすれば、今さらだが筆者も厳粛な気持ちにならざるを得ない。ま、幸いにも佐賀平野のセミの声は、様々な種類が混じり合った混声合唱だ。これは、ここが平和で豊かな自然に恵まれた土地だという、一つの証しでもある。うるさいなどと言ったら、オシッコをかけられるかも知れないなあ。
2011年07月22日
真夏に咲いたなでしこ

やった〜! 7月18日の早朝、テレビの前で絶叫したのは筆者だけではなかったはずだ。なにしろ、ドイツで行われたFIFA女子ワールドカップの決勝戦で、なでしこジャパンが世界ランキング1位のアメリカを打ち破り、みごと優勝を成し遂げたのだから。その瞬間、多くの日本人が心から歓喜し、感涙にむせんだことだろう。3月のあの震災以来、誰もが待ちわびた久々の明るいニュースだったね。
正直言えば筆者も、まさか勝てるとは思わなかった。序盤のアメリカの猛攻を見た時点で、ああ、この試合は4−0で負けだなと観念したのも確かだ。本当にヒヤヒヤだった。何といっても、相手はデカくて速くて超パワフル。そんな規格外軍団のアメリカに対し、なでしこ戦士たちの小さなこと。彼女らがパスワークと俊敏さと精神力でどんなに立ち向かおうと、所詮は“蟷螂の斧”。最後はB29の前のゼロ戦のように、木っ端微塵に弾き跳ばされて終わり、などと筆者もつい悲しいシナリオを思い浮かべたりしたのだが…。
とにかくドラマチックな試合だった。前半のアメリカの猛攻を何とか凌ぎきった日本だったが、ようやくパスが回り始めた後半24分、相手ゴール前からのロングボールによるカウンターでついに失点。嫌な予感が漂い始める。だが、驚いたのはそこからだ。わずか11分後の後半35分、相手ゴールエリア付近で味方のクロスを受けた丸山選手がつぶれ役となり、敵DFがボール処理にもたつく間に、スルスルと駆け上がった宮間選手が押し込むように同点ゴール。ズドンという一発ではなかったが、これはアメリカにとってはダメージの大きな、嫌らしいゴールだったに違いない。
結局、試合は1−1のまま90分では決着がつかず、ついに15分ハーフの延長戦へ。なでしこは良く粘っている。だが、ここでも先手を取ったのはアメリカだった。前半14分、最も恐れていた敵のエースFWワンバックに、中央から頭でドカンと一発決められたのだ。ゴール前に突っ立った彼女は、まるで仁王様のようだった。あ〜あ、やっぱりな…。ペシミストの筆者は、心の中で早くも白旗を上げてしまったのだった。
そして延長後半、残り時間もあと数分となったとき、日本にコーナーキックのチャンスが巡って来る。おそらく、これが最後の抵抗になるのかな──筆者はそう思い、アメリカの選手たちもそう考えたはずだった。身長で遥かに劣るなでしこが、どうやって大女どもに空中戦で勝てるのか…。思う間もなく、宮間選手の蹴ったボールが低く速く、コーナーのニアを目指して飛んで来る。そして、そこに誰よりも素早く走り込んだ沢選手が、欽ちゃんジャンプでシューズの甲を合わせる。次の瞬間、後方のアメリカのゴールネットが揺れ、筆者は半ばわが目を疑いながら拳を突き上げていた。おお、この手があったか! まさに電光石火、奇跡のゴールだったね。土壇場でまた同点だ。
120分の死闘の後のPK戦は、初めから勝負がついていたような気がする。勝ったはずの試合を同点にされたアメリカは、明らかに動揺し、焦り、自信を失っていた。なにより、試合序盤から攻め続けながら、放ったシュートが次々とポストやクロスバーに嫌われるなど、運にも見放されていた。たぶんキリスト教国のアメリカの選手たちは、うすうすこう感じていたのかも知れないな。神はこの試合で、日本を勝たせようとしている──と。なにしろ日本はこの3月、未曾有の大震災に見舞われ、多くの都市や人命を失っている。なでしこの選手たちは、その復興への期待と希望を一身に背負って、健気なほど懸命に戦っているのだ…。
かくしてPK戦は3−1の圧勝に終わり、日本が初のW杯チャンピオンに輝いた。だが神様の後押しがあったにしろ、この栄光を引き寄せたのは、やはりなでしこたちの不断の努力と、試合における不屈の精神力が、モノを言ったからだろう。とにかく彼女らの戦いぶりは、見事という他はなかった。つい数年前まで中国や北朝鮮に歯が立たなかったことを思えば、長足の進歩とはこのことだ。いや、恐れ入りました。
だが、聞くところによれば彼女らの選手生活は、経済的にあまり恵まれてはいないらしい。普段の戦いの場であるクラブチームでも、プロ契約をしている選手はほんのひと握り。ほとんどがアマチュアで、社業を兼ねたりバイトで生活費を稼ぎながらの活動だというから、信じられないような話だ。あれほどのスーパープレーを見せ、日本中を感動させてくれた選手たちが、普段はつましい生活をしているのかと思うと、儲かっている企業は金ぐらい出してやれよ、とつい言いたくもなる。
ただしこんな話を聞いて、なんだプロじゃない選手たちは、趣味でサッカーをやっているのか、などと中には短絡的に捉える人もいるようだ。だが、これはちょっと違うと筆者は思う。プロかアマかは、飽くまでも生活費を稼ぐための形態の違いであり、両者がより高みを目指して自己鍛錬に励む、優れたサッカー選手であることに変わりはないはずだ。
実力的にプロと遜色のないレベルならば、それを趣味と呼ぶのは彼女らに対し失礼にあたるだろう。アマはいつでもプロになり得るし、逆もまたしかりなのだ。「プロサッカー選手」でなければ「純粋サッカー選手」と呼べばいい。なにしろ、彼女らは自分の青春を懸けているのだから。これは創作活動を続ける画家が、バイトで生活費を稼いでいるからといって、それを趣味とは呼ばないのと同じじゃないのかな。
まあ、女子サッカー自体の人気がまだこれからだという日本。なので、今回の快挙を契機に「なでしこリーグ」が盛況になり、さらにプロ契約を結ぶ選手が増えれば、生活も安定しますます実力も向上するだろう。そのためには、この盛り上がりを一過性で終らせてはならない。何といっても女子サッカーには、男子とは違う華やかさがあるものな。筆者的には、若くカワイイ選手の台頭にも期待したい。
2011年06月30日
J1へのリベンジロード

柏おどりはヨ〜、春来てひらくヨ〜♪。先日、Jリーグの試合をテレビで観ていたら、タイムアップ後に懐かしい歌声が聞こえて来て驚いた。なんと大月みやこが歌う、あの「柏おどり」じゃないか。サッカーの試合場には不似合いなコテコテ日本調の音頭が、どうやらゴール裏の、勝利した柏レイソルのサポーター側で流されているらしい。たぶん彼らにとって“勝利の凱歌”なのだろうが、こちらもちょっとだけ嬉しくなった。
実はそのむかし、青春ただ中の18年間を柏市民として過した筆者には、「柏おどり」は耳に馴染みの歌なのだ。むろん全国的には、誰も知らないローカルソング。だが、今もむかしも同市に住んでいる人間で、これを知らない者はおそらくいないはず。柏で祭や盆踊りといえばどこに行ってもまず、大月みやこのあの艶っぽい歌声が流れていたのを、筆者は思い出すんだなあ。まあ好きか嫌いかは別にして、「柏おどり」はそれほど“地域密着”の歌なのだ。ただしあの頃はまだJリーグも柏レイソルも、この世に存在してはいなかったけど…。
その柏レイソルが現在、リーグ戦のトップを快走している。ネルシーニョ監督の指揮のもと、ベテランや若手やブラジル人選手が一体となって、みごとな戦いを見せ勝ち続けているのだ。筆者がかつて住んでいたアパートからもほど近いらしい、日立柏サッカー場では勝った試合後ごとに、「柏おどり」が大音量で流されているのかも知れないなあ。柏サポーターも、そこで踊ったりしてね。
だが柏レイソルのこの快進撃を、リーグ開幕前に予想した人はあまりいなかったはずだ。なんといってもレイソルは、昨年は下部のJ2で戦っていたチーム。相撲でいえば、十両から幕内に上がったばかりの力士が、いきなり横綱や大関をなぎ倒して、優勝争いの先頭を切っているようなものなのだ。専門家でさえ驚きの目で、この活躍を注視していることだろう。
なにより今年のレイソルは、攻撃力が素晴らしい。FWではまずベテランの北嶋が頑張っているし、売り出し中の田中順也の決定力にも目を見張るものがある。サイドハーフにも大津や茨田といったイキのいい若手が揃っており、右のサイドバック酒井宏樹はザッケローニも注目する成長株だ。またブラジル人のジョルジ・ワグネルのフリーキックは神業的だし、レアンドロ・ドミンゲスも負けてはいない。ここにみごとな連携が加わり、どこからでも得点出来るのが、今年の柏の強みだろうか。
こうしたポテンシャルの高い選手たちをJ2で鍛え上げ、連携を深めさせ、戦術を浸透させて、J1で戦える集団に仕立て上げたのはネルシーニョ監督だ。その手腕は大したものだが、それもこれも昨年一年間の戦いが、おそらくモノを言っているのだろう。つまりレイソルは2009年にJ2に降格したものの、主力選手を放出することなく戦力を磨き上げ、翌年を圧倒的な戦績で優勝し、その勢いのまま今年のJ1に殴り込みをかけた、そんな猛者軍団なのだ。士気や練度が高いのは、当然といえば当然なのだな。
筆者が注目しているのは、実はここ数年、同じような現象がJ1で起きていることだ。つまり、J2からの下克上。一度はあえなく降格したものの、外国人監督の手腕を信じて全面委任、ひたすら戦力のレベルアップを図り、圧倒的な戦いぶりでJ2を制覇した後に、勢いを駆って翌年のJ1で大暴れをする──。そんなケースがこのところ目につくのだ。あるいは、ちょっとしたムーブメントにさえなっているような…。
例えば2007年に降格したものの、ペトロヴィッチ監督を留任させたサンフレッチェ広島は、翌2008年にJ2をぶっちぎりの勝点で優勝。昇格した2009年のJ1でも大躍進し、結果はリーグ4位。翌年のアジアチャンピオンズリーグへの出場権を獲得している。ペトロヴィッチ仕込みの徹底したパスサッカーは、いまやサンフレッチェの代名詞となり、J1でも一目置かれる存在だ。
また、2006年に降格のセレッソ大阪もそう。2007年シーズンの中途から就任したクルピ監督が、その年の昇格に失敗するも留任させ、翌年、翌々年と2年をかけて着々と戦力を強化。2010年からのJ1返り咲きを成し遂げている。そればかりか、その年は優勝争いにも加わる大活躍でみごと3位に食い込み、今年のアジアチャンピオンズリーグに進出。いまのところ日本勢4チームの中では唯一、勝ち残っているから立派なものだ。
こうしてみると、柏レイソル、サンフレッチェ広島、セレッソ大阪の躍進からは、ある共通した“リベンジロード”が見えて来る。やはりクラブは監督を信じ、監督は選手を信じ、選手は意気に感じる──これなのだな。こうした信頼関係の上に地道な日々の練習が重なり、徐々にチームの戦術理解が進んで行く。そしてJ2の長く過酷な連戦の中で選手の連携はさらに深まり、結果として監督のコンセプトが浸透した、強固で個性的なチームが出来上がるというわけ。J1での躍進は、フロックでもなんでもないのだ。
それに比べればJ1には、毎年のように中位から下位に低迷しているチームがある。特徴は、大きく躍進することもない代わりに、降格だけはなんとか免れるところだろうか。そして、毎年のように監督のクビをすげ替えるのも、彼らの特技の一つなのだ。だが、これではいつまで経ってもチームの骨格が定まらないし、選手も戸惑うばかり。サポーターだって面白くはないはずだ。そんなクラブ再生にピッタリのヒントが、この“リベンジロード”にあると思うのだが、さてどうだろう。
2011年06月17日
増え過ぎたカラス

先日の昼間、街なかの道を歩いていたら後ろから何者かに、いきなり「バンッ」と頭を叩かれた。「おのれ、曲者!」とばかり振り向いたが、背後には誰もいない。狐につままれたような気分で辺りを見回すと、すぐ頭上を巨大な真っ黒い影がふわりと上昇して行くじゃないか。それは大きく翼を広げた一羽のカラスだったのだ。「コノヤロー!」と思ったが、ピストルを持ち歩いているわけじゃなし、残念ながらどうすることも出来ない。
相手はそのまま高い電線の上にとまり、平然とこちらを見下ろしている。幸い筆者はそのとき、愛用のハンチングを被っていたので頭に傷を負うことはなかったが、なんだかカラス風情にバカにされたような気がして、ちょっと情けなかったなあ。というか、これじゃまるでヒッチコック監督の映画『鳥』の一場面ではないか。くそ、覚えていろよ!
そういえば、佐賀平野に跳梁跋扈するカラスの姿が、近ごろやたらと目につくようになった。たとえば奴ら、春先には産卵したカササギの巣を集団で襲い、卵や雛を補食したりするのだ。樹上で闖入者に必死に抵抗するカササギのペアを、筆者はもう何度も見たことがあるが、あのときの彼らの悲し気な叫びは何とも言えないなあ。なんといっても、カササギは佐賀県の天然記念物であり県鳥なのだから、見ているこちらもいたたまれなくなる。
もっと気味が悪かったのはいつかの夕方、佐賀市内の県博から県庁に至る静かな通りを歩いていたときのこと。このあたりは旧佐賀城内にあたり、緑豊かでスペースがゆったりとした美しい所だ。筆者は自宅に帰るため、脚を速めていた。で、ふと頭上を見上げて、思わず声を上げそうになった。
なんと歩道と平行して走る高い電線の上には、何百羽という真っ黒なカラスの群れが、ズラリと途切れることなく列をなしていたのだ。いや、その数の凄まじいこと、そして夕暮れの空に浮かぶ黒いシルエットの不気味なこと…。何よりゾッとしたのは、自分がずっと彼らの真下を歩いて来たのに気付いたことだ。よくもまあ、ドバッと糞を落とされなかったものだ、と。しかしいつから佐賀市内には、こんなに多くのカラスが棲むようになったのかと、そのときあらためて思ったね。
筆者の子供の時分の記憶からいうと、カラスといえばもっぱら山に居たものだ。学校の遠足などで山に登り昼食の弁当を食べていると、よくカラスが集まって来て、包み紙の新聞紙をかっさらって行ったりしたのを覚えている。山は彼らのテリトリーだったのだ。で、平野部に大人しく棲むのがカササギ。かつて佐賀のカラスとカササギは、山と平野でうまく棲み分けをしていたような気がするのだが…。
そう思って調べてみると、一般的にカラスと呼ばれる鳥はハシブトガラスとハシボソガラスの2種類に分かれ、もともと山などに棲んでいたのは嘴が太いハシブトガラスの方らしい。一方の嘴の細いハシボソガラスは、むかしから平地に棲んでいたようだ。ともに雑食性で木や草の実はもとより、昆虫から動物の肉まで何でも食べるらしいが、どちらかといえばハシボソガラスの方が植物性のものを好むのだとか。街なかのゴミ置き場を漁ったりする嫌われ者は、主にハシブトガラスだというから、どうやらカササギ襲撃犯はこいつらかな?
山に棲むハシブトガラスが平地に降りて来た理由としては、いろいろ考えられるようだが、やはりそこが彼らにとってベターな環境だからだろう。開発がすすみ棲みにくくなった山に比べ、人の住む平地には木々の豊かな森や公園がある。そこでは猟銃で撃たれる心配もない上、街なかに行けば生ゴミという栄養豊富な朝食が手に入る。ハトやネズミやネコといった餌となる小動物も多い。巣を作るなら住宅の物干しから、ワイヤーハンガーをいくらでもかっぱらって来れば良いもんな。つまり人間をうまく利用すれば、平地はとても棲みやすい場所だということに、彼らは気付いたのだろう。
思えば筆者が以前住んでいた東京都では、石原都知事の肝いりでカラスの駆除対策を積極的にやっていた。トラップを仕掛けて大量捕獲したり、ゴミ置き場に防鳥ネットを設置したりと、けっこうな努力を続けていたが、その効果があって平成13年度に計3万6400羽いた東京のカラスが、21年度には1万9100羽にまで減少したいう。都庁に寄せられたカラスに関する相談件数も、ピーク時の約15%にまで減ったというから、赫々たる戦果だ。
筆者はサッカー観戦が大好きで、特に日本代表チームには思い入れが強い。なので八咫烏のエンブレムには愛着があるし、佐賀の市街地からカラスを一掃せよなどと、過激なことを言うつもりもない。彼らにも生態系の中で果たす、役割というものがあるのだろう。だが人間がまいた種のせいで彼らの数が増え過ぎたのなら、やはり人間の手で適正な数に減らす努力をするべきじゃないのかな。毎春あちこちで、カササギのペアの悲し気な声を聞かされるのは、どうもちょっと辛いのだ。
2011年05月20日
だからB級映画が好き

テレビでもバンバン宣伝され、期待して観に行った映画がすっかり外れだったときは、思わず“金返せ!”と叫びたくもなる。有名俳優がずらりと並び製作費も巨額の、いわゆるA級映画ほどその落差は大きくなる。豪華な階段を上って二階に着いたら、意外にショボイ部屋に案内され、がっかりして振り返ると後ろにあったはずの階段が外されていた──。そんな感じだろうか。
そこへ行くと、B級映画は安心できる。なにしろ初めからそれほど期待してない分、当たれば儲けものといった気楽さがある。外れてもまあこんなものかと諦めがつくし、当たったら望外の喜びが待っている。これは、冴えない大衆食堂でたまたま注文したハヤシライスが、牛肉たっぷりの極上の味だったときのようなものか。やっぱりこのメニューを選んだ自分は、なかなかの目利きなのだという、甘い自己満足に浸るとき、誰もがきっと大きく鼻の穴を膨らませるのだろう。
そんなわけで筆者もB級映画のファンなのだが、じゃあB級とは何かと問われると、にわかには説明し難い。まあ、一般的には低予算で短期間に作られた作品のことを言い、それゆえに出演者のギャラ(質ではない)も決して高くはないはずだ。ただしその分、監督の技量が問われることになり、無名でも才能と情熱さえあれば大ヒット作を飛ばすことも出来る。いまは巨匠となったS・スピルバーグが若い頃に作った『激突!』や、J・キャメロンの出世作となった『ターミネーター』などは、その代表例じゃないだろうか。
筆者の考えるB級の定義はというと、予算云々というより、分かり易く言えば全てにおける“安っぽさ”だろうか。まず主演俳優に「なんでこの人が?」といった意外性があること。それから、物語の細かいディテールなどは平気ですっ飛ばす、無神経さというかアバウトさがあること。むろん、セットが安っぽいことは言うまでもない。とにかく、面白ければそれが一番というポリシーに貫かれ、アイデアと工夫に満ちた、サービス精神横溢の真摯な娯楽映画、それがB級映画ってことになるのかなあ。
そんな筆者のいちばんのお気に入りは、1953年公開のアメリカ映画『宇宙戦争』だ。2005年に同名のタイトルで、スピルバーグ監督によりトム・クルーズ主演でリメイクされたが、何といってもこちらは製作費1億3200万ドルの超大作映画。映像のど迫力なら比較にはならない。だがどちらが好きかと訊かれたなら、当然ながら筆者はB級の香り高い、このバイロン・ハスキン監督の旧作『宇宙戦争』に軍配を上げたい。むろんリアルタイムではなく、ビデオテープやDVDによる観賞なのだが、とにかくもう何度見てもこれは傑作なのだ。
原作は有名なH・G・ウェルズのSF小説。──第二次大戦後まもないアメリカの田舎町の山中に、ある晩、一個の隕石が落下したことから物語が始まる。中から現れたのは、なんと強力な熱線を武器とする火星人の円盤で、無抵抗の町の住民はもとより駆けつけた軍隊さえも問答無用で攻撃、次々と町を焼き尽くして行く。彼らの目的は地球の征服だったのだ。科学者のフォレスター博士は、火星人にも弱点があるはずと主張するが、続々と世界中に現れた円盤に人類の武器はまるで歯が立たず、いよいよ地球は滅亡の際に追い込まれるのだった…。
主役のフォレスター博士を演じるのはジーン・バリー。後にテレビシリーズ『バークにまかせろ』で、気障でハンサムな探偵を演じた人気俳優だ。正統派の二枚目でナイスガイなのに、銀幕の大看板を背負うにはちょっとなあというB級感が、どこか日本の俳優で言えばむかしの高島忠夫を思わせる。もっとも、この軽さがなんとなく筆者は好きなんだけどね。
この映画の持ち味は、前半と後半で大きく印象が変わることだろう。牧歌的な田舎町から始まった小さな事件の炎が、やがて人類全体を脅かす戦火へと燃え広がって行くのが前半だとすれば、後半は火星人の攻撃に街が破壊され、逃げまどい絶望の縁に立たされる人間たちの姿を克明に描いている。つまり、前半はSF冒険活劇風お子様映画だったものが、後半はガラリと変り、クライシスを迎えた人類のパニックを描く、本格大人向け映画になっているところが面白いのだ。
とにかく、前半はめっぽうギミックっぽい。地球に落下する隕石はそのまま花火だし、円盤は吊っている糸が丸見え。彼らと対峙する町の人々や軍隊を描いたシーンは、ほとんどがスタジオ内のセット撮影という感じだ。フォレスター博士と恋人のシルビアを乗せたセスナ機が、森の中に墜落するものの、二人はケガ一つなくその場を脱出という場面では、思わず「おいおい」とツッコミを入れたくもなった。
だが、この映画の素晴らしいのは後半だ。屋外ロケやオープンセットのシーンがグンと多くなり、画面は見違えるほどスケール感を倍加させ、リアルでシリアスな色合いを濃くして行く。中でも特筆すべきは、群衆の描き方だ。荒廃した都市をあてもなく逃げ惑い、泣きわめき、暴徒と化し略奪を重ねる大衆の姿は、まさに人間の本質そのものじゃないか。本当にうまい。一瞬だが、人であふれる教会の石段を、小さな女の子が落としたボールが転がるシーンなど、あの有名な『戦艦ポチョムキン』の「オデッサの階段」を連想してしまったよ。ハスキン監督、ただ者じゃあないのだ。
離ればなれになったフォレスターとシルビアが、最後に再会する教会のシーンは、これをB級と呼んで良いものかと思うほどドラマチックで感動的だが、やはりこうしたSFものはちゃんと人間の姿を描くことが、最後の評価を上げることに繋がるのだな。ストーリーは分かっているのに何度見ても面白いのは、たぶんそういうことなのだろう。またこの映画には、本多猪四郎監督の『ゴジラ』や『地球防衛軍』など、後に作られた日本の特撮映画に影響を与えたと思われるシーンも散見される。そういう意味でもこれは筆者にとり、映画史上に輝くB級傑作映画なのだ。
2011年04月23日
日本はロボット大国?

先日の大震災で大きな被害を受けたのが、東京電力の福島第一原発だ。水素爆発で「建屋」と呼ばれる原子炉を覆う建物が吹っ飛び、放射能漏れを引き起こすという最悪の事態となってしまった。壊れた建屋の中は放射線量が高すぎるため、人間が入って調査することが出来ない。
で、こんなとき活躍するのがお前だ、ということで投入されたのがロボット。何といっても日本は、自他ともに認める「ロボット大国」だ。さぞかし格好いいスーパーロボットが、日の丸を付けてがれきの山に突入するはずと筆者が思っていたら、なんと実際に投入されたのはアメリカ製のもの。しかもキャタピラの上に長いアームが付いただけの、ずいぶんシンプルな(というか野暮ったい)形をしていたのには驚いた。こんなので大丈夫なの?
ところが、調べてみたらさらにビックリ。これは、アメリカのアイロボット社が開発した多目的作業用ロボットで、その名は「PackBot(パックボット)」。危険で悪環境の場所で人間に代わり作業をするという、実用本位につくられたロボットのようで、すでに世界の紛争地域や2001年のアメリカ同時多発テロの現場でも、バリバリ活躍した実績を持つのだとか。つまりこれ、意外にも百戦錬磨のタフな兵士だったのだ。これでは、日本のロボットは太刀打ち出来ないなあ。
なにしろ「ロボット大国」とはいえ、日本のロボットで連想するのは主に、ホンダが開発した「ASIMO(アシモ)」のようなヒト型ロボットか、自動車の生産工場などで使われる産業用ロボット。どちらもそれぞれの分野では、世界のトップを行く技術を集積したものなのだろうが、しかし悲しいかなこれらは平時用だ。ASIMOはショーのステージで踊ったりコーヒーを運んだりは出来ても、がれきの山に踏み込むことは一歩も出来ないだろうし、産業用ロボットは工場内の作業にのみ特化されており汎用性がない。
つまり、日本にはスマートで優れたロボットを作る技術はあっても、事故や災害などの危険で悪環境の場所に踏み込み、人間に代わって調査や救助をするといった、非常時に活躍できる実用ロボットの開発についてはあまり熱意がないらしい。そういうことになる。仮にパックボットのようなものを作った技術者がいたとしても、過去、実際にそれが使われたという話は寡聞にして聞いたことがない。まあ実戦経験がない以上、今回のような緊急時には経験のあるベテランに任せざるを得ないのは、残念だが仕方がないだろうな。
なぜこうなったかについてはいろんな理由が考えられるが、まず「鉄腕アトム」を生んだ国ゆえの、ロボット=ヒューマノイドという偏った刷り込みの影響も大きいだろう。あるいはアメリカのように、軍事用に開発した技術を民生に転用するという方法も、平和憲法のあるこの日本では難しい。逆に災害時の救助ロボットなどを開発したとしても、軍事転用の危険性があるなどと、イチャモンをつける変な人だって現れかねない。つまり、ロボットは平和で安全なものにしか使えないという、おかしな国なのだ日本は。
かくして福島第一原発の現場で、アメリカ製ロボットに先を越されたわけだが、しかしこれではいかんとついに日本の科学者が立ち上がったらしい。4月22日付けの朝日新聞サイトの記事によれば、いよいよ次はロボット大国の威信をかけて、国産ロボットが投入されるのだとか。その名は災害救助用ロボット「Quince(クインス)」。千葉工業大未来ロボット技術研究センターや、東北大の科学者らが開発したもので、2009年のロボカップレスキュー世界大会では、運動性能部門とアームの性能部門で優勝したというツワモノだ。
だったら最初から出せよとツッコミを入れたくもなるが、まあ実戦経験がないのが辛いところなのだろう。コンテストと実際の現場とでは、まるで違うはずだからね。このクインス、写真で見るとキャタピラの上に長いアームが付いただけの、シンプルなデザイン……。というか、パックボットとそっくりなのがちょっと残念だが、ロボット大国の名誉回復のために、そして日本人のロボットへの固定観念を変えるためにも、ぜひとも活躍して欲しいものだ。
2011年04月06日
大地震そして4月

このところサボって来たブログの更新。何といっても東日本を襲った大震災のショックが大きかったし、その次は筆者自身が体調を崩しての入院などがあり、あっという間に3月が過ぎ去ってしまったというわけ。気が付けばもう桜満開の4月だものなあ。時の過ぎ行くのは早いものと、つくづく思い知らされる。
今回の震災だが、東北地方の被害の甚大さには、あらためて驚かされるばかりだ。なにしろ巨大津波で、大きな町ごと根こそぎ海にさらわれた地域もある。自然界の無限のパワーの前には、人間の力など無に等しいということだろうが、それにしても亡くなられた方々は本当にお気の毒だ。同じ地震列島に住む日本人なら、誰も人ごととは思えないだろう。
筆者には東北地方に知人はいないものの、これまでの人生の半分以上を過ごして来た関東地方には、多くの友人知己が住んでいる。なので地震直後に早速メールでお見舞いを送ったところ、多くの友人たちが返事を返してくれた。ふだん返事などよこさないタイプの知人からも、長いメールが届いたりした。誰もが動揺しているらしいのが、何となく分かった。
幸いなことにケガ人などは誰もいなかったが、被害は決して小さくはなかったようだ。いちばん被害を受けたのは、やはりマンションなどの高層ビルの住民らしい。東京都内や埼玉県、神奈川県などのマンションの高い階に住む友人たちは、口を揃えたように長い揺れが続き船酔い状態になったという。で建物自体は無事だったものの、本棚が倒れ食器棚が壊滅し、家の中が滅茶苦茶になったという話が圧倒的に多かったな。中には仏壇が飛び散ったという同業の先輩もいたけど、これはお気の毒…。
都下のマンションの6階に住む友人一家は、未体験の恐怖を覚えたといい、本震のあとに続く余震にも脅かされ、しばらく夜は服を着たまま寝たという。ビルの高い階ほど揺れは増幅するから、住んでる人はたまったものではないだろうが、それにしても関東地方の揺れも相当なものだったようだ。高層マンションは、やはり地震と火事にはちょっとリスキーだね。
あと外出先で地震に会い、帰宅難民になったという友人もいた。彼はたまたまそのときお台場にいたらしいのだが、帰宅の交通網が完全にマヒしたため、その日は近くの国際交流センターのホールで一夜をすごし、翌日の昼に隣県の自宅に戻れたという。ただし、当夜は備蓄されていた食料や水が提供され、避難者はみな秩序を守って行動し、雰囲気は大変良かったらしい。こういうのを聞くとどこかの国とは違い、日本はやはり素晴らしい文明国なんだなあと思わされる。
まあ佐賀に住んでると、むこうでの揺れがどれほどだったのかを想像するのはなかなか難しいが、中にはその瞬間に死を覚悟したという友人もいるから、きっと尋常ではなかったのだろう。今回の地震が、建物や交通インフラなどだけではなく、人間の心に大きな傷痕を残したのも間違いないはずだ。被害を免れたわれわれ西日本の住民は、まずはどうすれば彼らを励まし、元気づけられるかを考えるべきだろう。
そういえば先日、近くのドラッグストアに行ったところ、ミネラルウォーターのペットボトルが品薄になっていた。えっと思ったが、これはおそらく佐賀県民が自分のために買い溜めているのではなく、被害にあった地域に住む親戚や知人に送るため購入しているからなのだろう。そう思えば、この現象も理解が出来る。何といっても一つになって助け合うチームワークこそが、日本人の真骨頂なのだから。筆者もしばらくは、不要な水や乾電池などは買わないことにしようっと。
2011年02月24日
有名人とのすれ違い

佐賀県に住んでいると、誰もが知っている有名人を街で見掛ける機会は、まず非常に少ない。大都会と違って有名人自体があまりここには住んでないので、まあ仕方がないといえば仕方がないが、ちょっと寂しい気はするね。佐賀在住の有名人といえば、まず思い浮かぶのが「かばいばあちゃん」の島田洋七師匠だが、筆者にはいまだ拝謁するチャンスがない。数年前に、佐賀駅でサガン鳥栖の松本育夫GM(当時)とすれ違ったのが、唯一の有名人体験だったかなあ。
ただ、最近は佐賀県出身の芸能人がたくさん活躍しているので、そうした人たちが帰省した折りには運が良ければチャンスはありそうだ。男なら俳優の村井国夫氏がつとに有名だが、他にもお笑いのはなわや江頭2:50に、小城町生まれの荒川良々らがいる。女優の松雪泰子や中越典子、タレントの優木まおみといった美人になら、遠目でも良いからぜひ会ってみたいものだ(そういえば、牧瀬里穂も佐賀出身という説があるが…)。
むろんこれが東京なら、有名人と街ですれ違うことはさほど珍しくはない。遥かむかし、筆者が初めて学業のため上京した頃もそうだった。まあ特別なスターなら話は別だが、テレビで見掛ける地味な役者やお笑い芸人、落語家などは、ごく普通の顔をしてけっこう電車に乗ったり、街を歩いたり、喫茶店でコーヒーを飲んだりしている。テレビと違うのは普段の彼らが、パッと見た瞬間にはそれと分からぬほど地味で無愛想なこと。やっぱり向こうも普通の人間なんだなと気付くとき、田舎出の若者も一歩だけ東京の住民に近付いたりするわけだ。
そんな筆者が見掛けた有名人の中で、今も強烈な印象として記憶に焼き付いているのは、あるスポーツ選手だった。あれは上京して間もない学生の頃、所用のため上野駅公園口の改札を出たときのことだ。待ち合わせでもしていたのか、改札口のすぐ脇に一人の若い男が立っていた。男がふと、こちらの方をパッと振り向いて見たのは、ちょうど筆者が改札を出たばかりのときだったね。おそらく、来るはずの誰かと間違えたのだろうけど。
短く刈り込んだ髪に、よく日に焼けた褐色の頬。見るとその精悍な顔には、おお、確かに覚えがある──。なんとそれは、プロボクシングファンの筆者がテレビでよく試合を観ていた、当時の世界Jライト級チャンピオン・小林弘その人だったのだ。いやあ、あのときは本当に驚いたね。
とにかく何が驚いたかといって、小林選手がパッとこちらを振り向いたそのときの、首の動きの速かったこと。もう何というか、猛禽類に睨まれたネズミとでもいうのか…。気の小さな筆者の心臓はその瞬間、ピタッと止まったようだった。世界チャンプはその後、また涼しい顔をして向こうを向いてしまったが、しかし、初めて感じたプロのボクサーのスゴさは、今もまざまざと筆者の胸に残っている。たかが振り向いただけでと思う人もいるだろうが、ま、これは本人じゃないと分からないだろうなあ。
上野駅といえば、ついでに記憶に残る話をもう一つ。同じ学生時代のある日のこと、何の用事だったかは忘れたが、筆者はやはり公園口の改札を出て、向かいの上野公園の方に向かおうとしていた。駅前を通る道路を横切れば、すぐ目の前が東京文化会館だ。で、横断歩道を渡ろうとしたところで、一人の警官に制止された。ん、なんで──? 怪訝に思いあたりを見ると、道路に沿って他にも何人かの警官が立っている。どうやらこれから、前の道路を誰かの車が通るらしい。
ふん、官憲め! 当時の風潮のまま反体制を気取っていた田舎出の若者(筆者のこと)は、通行の邪魔をされたことがどうにも面白くない。仕方なくブスッと不機嫌モードのまま、腕組みをしてその場に突っ立っていたというわけ。やがて右の方から、一台の黒い乗用車がゆっくりとやって来た。むろん誰が乗っていようと、そんなものにまるで興味はない。早くしてくれよ、考えていたのはそればかりだった。
しずしずと近付く乗用車──。と、どこかでパチパチと拍手の音がし、それが徐々に大きくなるじゃないか。筆者は好奇心に負けて、ふと車の方を見てしまった。そして、バッチリ目が合ってしまったのだ。な、なんと目の前の開いた車の窓から、こちらに向かいにこやかに手を振っておられたのは、当時の皇太子殿下(今の天皇陛下)だったのだ。こ、これは…。筆者の体は瞬時に固まり、そのとき拍手をしたのかお辞儀をしたのか、あるいは腕組みしたままだったのか、まるで覚えがない。
後にも先にも、とにかくあれほど驚いたことはなかった。横断歩道の前に立っていたのは、そのとき筆者一人だったし、紛れもなく殿下は筆者に向かって手を振っておられたのだからね。しかも、こんな生意気で不機嫌そうな若僧にだ。ホント、ここが東京だということをズシンと思い知らされた出来事だったなあ、あれは…。
車が通り過ぎた後、筆者がしみじみ実感したのは、ああ皇室の方はずいぶん気を遣っておられるんだなということ。そして、それに対しずいぶん失礼な態度をとっちゃったなということ。若気の至りとはいえ、これは今でも気になっている。その後、少しは日本の歴史を勉強し、皇室の大切さを理解するようになった筆者だが、テレビなどで天皇陛下の温厚そうなお顔を見るたびに、ついあのときのことを思い出してしまうのだ。陛下、本当にスイマセンでした!
2011年02月09日
二人の佑ちゃん
このごろ新聞やテレビを騒がせているのが、二人の“佑ちゃん”だ。ともにスポーツ選手。一人は、今年からプロ野球の日本ハムファイターズでプロ選手として歩み出す、早稲田大学出身のピッチャー斎藤佑樹。もう一人はサッカー界で、1月末にイタリアはセリエAの超名門、インテルに電撃移籍を果たしたDFの長友佑都。ただの偶然なのだろうが、二人とも名前に「佑」の字が入っている。
ただし“佑ちゃん”の愛称で呼ばれているのは、もっぱら野球の斎藤の方だ。とにかく朝から晩まで、新聞・テレビの煽ること煽ること。新聞記事にその名前が載らぬ日はなく、テレビのニュースやワイドショーでは、彼のキャンプでの言動一つひとつを微に入り細に穿って伝えている。その煽りに乗せられたのか、乗りやすい国民性の故なのか、「佑ちゃ〜ん」と叫んでその後を追う群衆(どうやらオバサンが多い)の姿は、まるで一つの社会現象だ。
しかしねえ、どう見てもこれは異常だよ。何と言ってもまだキャンプ中、つまりシーズン前の練習の時期なのだ。プロのマウンドでまだ一球も投げていない新人投手を、あたかも大スターのように持ち上げるマスコミも観衆も、どうかしているとしか思えない。いくら元甲子園のヒーローでルックスが古風なお坊ちゃま風とはいえ、斎藤はヨン様でもなければ中国から来たパンダでもないはず。いい加減そっとしておいてやればいいのに、と思うのは筆者だけではないだろう。
思えば日本の野球報道は、毎年同じことをやっている。たしか昨年の今頃は菊池雄星とかいう高卒投手が注目の的だったし、その前辺りには中田翔という野手の持ち上げ方もスゴかった。いわく「何十年に一人の逸材」。かつての太田幸司や荒木大輔の頃から騒ぎを知っている筆者には、これは毎春恒例の中身のないキャンプ祭にしか見えない。
まだ海の者とも山の者ともつかぬプロの卵たちを、あたかも将来が約束されたスターのごとく扱い、ダメな場合はさっさと梯子を外すマスコミのこうしたやり方は、いったいいつまで続くのだろう。さんざん祭り上げられた末に潰れて行った選手の数は、成功した選手の数より遥かに多いんじゃないだろうか。いくら新聞を売りテレビの視聴率を上げるためとはいえ、ちょっとこれは罪が深いような気がするなあ。

さてもう一人、熱い視線を集めているのが、イタリアで活躍中の長友だ。こちらはインテルでは新人とはいえ、すでにFC東京からセリエAのチェゼーナに渡り、プロ経験は十分の選手。日本代表の不動の左サイドバックとして、昨年のW杯や今年のアジア杯でも大いに活躍したばかり。顔は斎藤がお坊ちゃま系なら、こちらは愛嬌あるサル系ながら不敵な面構えをしている。なので、彼のことを“佑ちゃん”と呼ぶマスコミは、さすがにいないはずだ(一部女性ファンの中にはそんな人もいるだろうが)。
ともかく、何がスゴいといってもインテルだ。前年度のセリエA、UEFAチャンピオンズリーグ、FIFAクラブW杯の栄冠を独占した、正真正銘のビッグクラブなのだ。カメルーン代表のエトーやオランダ代表のスナイデル、ブラジル代表のマイコンなど、選手の顔ぶれはまさに世界のスター軍団。前監督はあのモウリーニョだし、現在はあのレオナルドが指揮をとっている。
その中でJリーグ出身の日本人選手がプレーするなんて、まるで夢のような話じゃないか。韓国のパク・チソンがマンチェスター・ユナイテッドで活躍する様を、少し羨ましく眺めていた日本のサッカーファンにとり、やっと溜飲を下げられるときがやって来たというわけだ。何たって、こっちはインテルだもの! たとえ脚が短くとも、スピードとスタミナと俊敏性で、日本人がビッグクラブで通用することを、長友にはぜひ証明して欲しいね。
さいわいプロ野球と違ってサッカーの世界では、マスコミも選手を無用に持ち上げて芸能人のように扱う手法はとってはいない。そこがホッとするところだ。本来、騒ぐのは選手が結果を出してからで良いはず。長友だって不甲斐ないプレーをすれば、イタリアのメディアやサポーターから激しい非難を浴びるだろうし、斎藤もプロとしての活躍が出来なければ、いずれ寂しいフェードアウトが待っている。そこは厳しい実力の世界なのだ。
まあ二人の“佑ちゃん”の行く末は、まだ誰にも分からないということ。天狗になり努力を怠れば、あっという間に天国から地獄へ真っ逆さまだ。怖いなあ。二人にはぜひ外野の喧噪に惑わされず、自己鍛錬に励んでほしいと思う。
ただし“佑ちゃん”の愛称で呼ばれているのは、もっぱら野球の斎藤の方だ。とにかく朝から晩まで、新聞・テレビの煽ること煽ること。新聞記事にその名前が載らぬ日はなく、テレビのニュースやワイドショーでは、彼のキャンプでの言動一つひとつを微に入り細に穿って伝えている。その煽りに乗せられたのか、乗りやすい国民性の故なのか、「佑ちゃ〜ん」と叫んでその後を追う群衆(どうやらオバサンが多い)の姿は、まるで一つの社会現象だ。
しかしねえ、どう見てもこれは異常だよ。何と言ってもまだキャンプ中、つまりシーズン前の練習の時期なのだ。プロのマウンドでまだ一球も投げていない新人投手を、あたかも大スターのように持ち上げるマスコミも観衆も、どうかしているとしか思えない。いくら元甲子園のヒーローでルックスが古風なお坊ちゃま風とはいえ、斎藤はヨン様でもなければ中国から来たパンダでもないはず。いい加減そっとしておいてやればいいのに、と思うのは筆者だけではないだろう。
思えば日本の野球報道は、毎年同じことをやっている。たしか昨年の今頃は菊池雄星とかいう高卒投手が注目の的だったし、その前辺りには中田翔という野手の持ち上げ方もスゴかった。いわく「何十年に一人の逸材」。かつての太田幸司や荒木大輔の頃から騒ぎを知っている筆者には、これは毎春恒例の中身のないキャンプ祭にしか見えない。
まだ海の者とも山の者ともつかぬプロの卵たちを、あたかも将来が約束されたスターのごとく扱い、ダメな場合はさっさと梯子を外すマスコミのこうしたやり方は、いったいいつまで続くのだろう。さんざん祭り上げられた末に潰れて行った選手の数は、成功した選手の数より遥かに多いんじゃないだろうか。いくら新聞を売りテレビの視聴率を上げるためとはいえ、ちょっとこれは罪が深いような気がするなあ。

さてもう一人、熱い視線を集めているのが、イタリアで活躍中の長友だ。こちらはインテルでは新人とはいえ、すでにFC東京からセリエAのチェゼーナに渡り、プロ経験は十分の選手。日本代表の不動の左サイドバックとして、昨年のW杯や今年のアジア杯でも大いに活躍したばかり。顔は斎藤がお坊ちゃま系なら、こちらは愛嬌あるサル系ながら不敵な面構えをしている。なので、彼のことを“佑ちゃん”と呼ぶマスコミは、さすがにいないはずだ(一部女性ファンの中にはそんな人もいるだろうが)。
ともかく、何がスゴいといってもインテルだ。前年度のセリエA、UEFAチャンピオンズリーグ、FIFAクラブW杯の栄冠を独占した、正真正銘のビッグクラブなのだ。カメルーン代表のエトーやオランダ代表のスナイデル、ブラジル代表のマイコンなど、選手の顔ぶれはまさに世界のスター軍団。前監督はあのモウリーニョだし、現在はあのレオナルドが指揮をとっている。
その中でJリーグ出身の日本人選手がプレーするなんて、まるで夢のような話じゃないか。韓国のパク・チソンがマンチェスター・ユナイテッドで活躍する様を、少し羨ましく眺めていた日本のサッカーファンにとり、やっと溜飲を下げられるときがやって来たというわけだ。何たって、こっちはインテルだもの! たとえ脚が短くとも、スピードとスタミナと俊敏性で、日本人がビッグクラブで通用することを、長友にはぜひ証明して欲しいね。
さいわいプロ野球と違ってサッカーの世界では、マスコミも選手を無用に持ち上げて芸能人のように扱う手法はとってはいない。そこがホッとするところだ。本来、騒ぐのは選手が結果を出してからで良いはず。長友だって不甲斐ないプレーをすれば、イタリアのメディアやサポーターから激しい非難を浴びるだろうし、斎藤もプロとしての活躍が出来なければ、いずれ寂しいフェードアウトが待っている。そこは厳しい実力の世界なのだ。
まあ二人の“佑ちゃん”の行く末は、まだ誰にも分からないということ。天狗になり努力を怠れば、あっという間に天国から地獄へ真っ逆さまだ。怖いなあ。二人にはぜひ外野の喧噪に惑わされず、自己鍛錬に励んでほしいと思う。
2011年01月29日
スカイツリーの建つ場所

先日、神奈川県に住む友人から1枚の絵はがきが送られて来た。自分で撮った写真を絵はがきにしたものだが、そこに写っていたのはあの建設中の「東京スカイツリー」。現場のほぼ真下から撮られたもののようで、青空を背にそそり立つ巨大な鉄骨の塔は、まさに迫力満点だ。友人は休みを利用して、いま話題の場所の見学に出掛けたらしい。
はがきに書かれた短信には、「◯◯さん(筆者)のむかしの住まいの近くに、ドーンとそびえ立つエントツタワー」との説明がある。そうなんだよなあ。このスカイツリーが建つ場所は、筆者のかつての住まいから歩いて10分足らずの所であり、以前はよく散歩のコースとして通っていた所なのだ。なので、懐かしさと同時に友人への羨ましさが、ググッとこみ上げてしまったというわけ。
彼のはがきによれば、似たような人々が大勢ケータイを手に集まっており、なんだかそれが巨大な神にも見えて来た、とある。まあこの写真から想像しても、その表現が誇張でないことはよく分かるが、いっぽうで人間の首もそうとうに草臥れそうだ。何といっても高さがハンパじゃないもの。完成すればあの333mの東京タワーの2倍近い、634mになるのだからスゴ過ぎる。
ここは最寄りの駅でいえば、東武伊勢崎線「業平橋(なりひらばし)」と京成電鉄および地下鉄「押上」があり、スカイツリーは両駅の中間辺りにデンと建つらしい。へえ!あんなところに、というのが筆者の率直な感想で、あの周辺を知り尽くした者にとっては、それほどにミスマッチな印象が強い。かたやスラリと美しい日本一の高層建造物、こなた下町のゴチャゴチャ冴えない低層ビル街。なんだか掃き溜めに一羽のツルが舞い降りたような感じだが、それがまた東京の面白いところなのかも知れないなあ。
思えばこの「業平橋」近辺は、筆者と不思議なほど縁がある。まず上京した学生時代の最初の夏休みに、住み込みでアルバイトをした町工場が、この駅から歩いて数分の所だった。そこは佐賀の田舎青年が遭遇した初めての“東京の下町”ったが、いろんな意味でカルチャーショックを味わったのを覚えている。三度の食事の味もそうだったが、泊めてもらった先輩の部屋のガラス窓を開けると、ベッタリと貼り付くように、数十センチ先にすぐ隣家の窓があったのには驚いたね。佐賀じゃこんなこと、絶対にありえないものなあ。
つぎに学生時代の友人の実家が、やはり「業平橋」の近くだった。この家は小さな木工場を営んでおり、二階が住まいになっていた。以前の町工場とは反対の方角にあったのだが、友人を訪ねるべくこの駅のプラットホームに再び降り立ったときには、ちょっとした感慨を覚えたものだ。卒業制作はこの友人を含め学生三人での共同設計だったため、この家に泊まり込んで図面を描き、彼のお袋さんに夜食の磯辺焼きを差し入れてもらったりしたのも、いまは懐かしい思い出だ。ろくにお礼も言えなかったけど、これからじゃ遅いかな。
そして、筆者が東京を去るまで二十年近くを過ごすことになる住まいが、やっぱり「業平橋」の近くだったというわけ。たまたま仕事上の知人がそこに住んでおり、その紹介で部屋を借りたのだが、浅草にも近い下町情緒や、最寄りの地下鉄を利用すれば銀座まで15分程度で行ける利便性が気に入ったのだ。しかし、これらはどれも本当に偶然の話。JRに私鉄に地下鉄と東京都内に駅の数はあまたあれど、これほど筆者に縁の深い駅は他にはないだろう。一度も降りたことのない駅だって、たくさんあるはずなのに…。
その「業平橋」駅が、スカイツリーの開業と併せた2012年春に、「とうきょうスカイツリー」駅に改称されるのだという。と同時に、あのショボイ駅舎も格好良くリニューアルされるようだ。なるほど、東武鉄道もずいぶんと力を入れているようだが、それで周辺の下町一帯が見違えるように生まれ変わるのなら、筆者も一度は見に行ってみたくなる。
だが、しかしだ──。駅舎がリニューアルされるのは一向に構わないとして、「業平橋」という駅名がなくなるのは少し寂しい気がしないでもないなあ。なにしろこの名前は、「伊勢物語」で知られるかの在原業平にちなむもの。すぐそばに大横川に架かる業平橋という実際の橋があり、また近くの隅田川には「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」という業平の歌からとった「言問橋(ことといばし)」もある。古くからこの辺りは、この歌人のゆかりの地なのだ。
まあ、東京の本当に面白いところは、新しいものが次々と生まれ、常に進化しようとするエネルギーに充ちている点だが、一方でこうした古い歴史が大事に守られ、両者がうまく共存している点にもある。ことに地名や駅名は、地域住民にとっては長く共有する財産のはずだ。新しい名所が出来たからといって、さっさと古い名前を削除して、ガラッと改名してしまうのはどうなんだろうね。筆者の思い出の為とは言わないが、東武さん、少し考え直しては貰えませんか?
2011年01月12日
ベンチ裏のユニフォーム

正月の楽しみといえば全国高校サッカー選手権だが、今年の栄冠は兵庫県代表の滝川二高が手にすることになった。いっぽう佐賀県代表の佐賀北高は、1回戦で福島代表の尚志に2-0で完敗。まあ、田舎の公立高校が全国大会で私立の強豪高に勝つのは、かなり大変なことなのは筆者にも分かる。しかしJリーグのクラブを抱える佐賀県の代表が、Jのクラブさえ無い福島県代表にアッサリ負けるのは、ちょっと悔しい気もするなあ。来年はなんとかして欲しいね。
ところで、この大会のある試合をテレビで観ていたら、面白い光景にぶつかった。といってもピッチ上の試合ではなく、ベンチでのこと。ふつうこうした大会のピッチ脇のベンチには、ポリカーボネート製の屋根が付きものだが、その透明な板にガムテープで一着のユニフォームが固定されていたのだ。それも背番号が見えるように、背中側を表にして。
アナウンサーの説明によれば、これは累積警告により出場停止処分を受けた選手のものだとのこと。なるほどね。出たくても出られない選手の代わりに、せめてそのユニフォームをベンチ入りさせてやろうという配慮だそうだが、ちょっと胸が熱くなる話ではあるなあ。だいいち出られない選手も感動するだろうが、これによりチームには一体感がいや増して、みんなで奴の分まで頑張ろうぜという気運がモリモリ盛り上がるはず。きっと試合でのパフォーマンスも向上することだろう。
いない選手の身代わりにユニフォームをベンチ入りさせるというこの話で、筆者はすぐに昨年末にDVDで観たある映画の一場面を思い出してしまった。その映画とは、日本人の大好きなあの『忠臣蔵』だ。話が左右にサイドチェンジし過ぎてナンだが、どちらも正月に相応しい泣ける話なのでちょいと紹介したい。
赤穂浪士の一人、赤垣源蔵は吉良邸へ討入りの前日、それとなく別れを告げるため雪の中、兄の屋敷を訪れるがあいにくの不在。訪問前に電話でアポイントをとることなど、当時はできないもんな。酒飲みの義弟が嫌いな兄嫁が仮病を使い出て来ないため、源蔵は仕方なく下女に頼んで借りた兄の羽織を衣桁に掛け、一人それに向かい涙で決別の杯を傾けるのだった…。
密かな決意を誰にも告げられぬ源蔵の苦衷が胸に痛いが、後で帰宅した兄が、去って行った弟の気持ちを思いやるシーンにも泣けるねえ。弟は羽織を兄の姿に見立てて別れを告げ、兄はそこに弟の秘めた心情を知るという、『赤垣源蔵 徳利の別れ』の一席だ。たしか三波春夫の歌謡浪曲にも、この話をテーマにしたものがあったような気がしたが。
まあ、『忠臣蔵』の数々の有名なエピソードが後世の創作だということは、筆者も知っている。この『徳利の別れ』もそうしたものの一つだろうが、日本人の心の琴線に触れる話であることは間違いない。なによりここには、その場にいない者の心を互いに思いやる、“武士の美学”みたいなものが流れているじゃないか。たとえ君はそこにいなくとも、心はしっかりと繋がっている──このウェットな心情こそが、日本人の日本人らしさなんだろうね。サッカーのユニフォームや羽織は、その人の魂が降りて来る一種の依代(よりしろ)なのかも知れないな。
──と、ここまで書いたところで、筆者はネット上で意外な記事を発見して驚いた。いやあ、こいつはまいったね。軽々しく「日本人らしさ」なんて考えた自分が恥ずかしい。これは大分県のサッカーファンの方々には、お詫びをしなくてはならないなあ。
記事とは、2009年まで大分トリニータの監督を務めた、ペリクレス・シャムスカについてのこと。それによれば、かのシャムスカ監督もまたベンチ裏に、試合の際にベンチ入りできなかった選手と、サポーターの象徴である背番号12のユニフォームを掲げ、チームの士気を高めたとある。そうだったのか、シャムスカ! “武士の美学”などと書いてしまったが、日本人とブラジル人、地球の正反対で生まれ育った両国民に、相通じるメンタリティがあったとは意外だった。これもいい話だが、ひょっとすると我々が考えている「日本人らしさ」も、あんがい普遍的なものなのかも知れないな。
ちなみに、『忠臣蔵』の物語は海外でもけっこう知られているそうだが、この赤垣源蔵の『徳利の別れ』のエピソードを外国人はどう感じるのだろう。やっぱり、美しい兄弟愛に涙を流したりするのだろうか。それとも、たかが兄の上着に向かい大の男が泣くなんて、とゲラゲラ笑うのだろうか。とりあえずブラジル人を手始めに、誰か調べてくれないものだろうか…。



